22 9月 Penny Blood Side Stories #2
THE DEVIL IN ME BLUES
By Ari Lee
1
青白い亡霊が闇を切り開いた。
亡霊たちは深い森からうじゃうじゃと湧きだし、町を見下ろす丘の開墾地に群がった。茂みに潜むコオロギの声を聞き、時折、隣の者に話しかけながら、彼らは仕事をこなしていた。辺りの空気は風もなくしんとして、夜は上弦からふっくらと膨らみ始めた月に照らされていた。
ほどなく、白い亡霊たちの下に、チラチラと緑に光る者たちが集まった。開墾地の中央で、白い影が違う長さの2本の木製ポールを十字架の形に縛っていた。彼らは十字架の周りにしゃがみこみ、灯油の強い臭気に少しむせながらも、そのひどい臭いを放つ油に浸された何枚もの麻袋で十字架を覆っていた。
背の高い赤色の影が森から現れ、亡霊たちの働きぶりを称えながら開墾地の中央まで歩み出た。続いて4人の白き者が寄り集まり、寝かせてあった十字架を起こし始めた。赤い亡霊は十字架のそそり立つ姿を見て小さな畏敬のため息を漏らした。大きな変化の燃え盛る象徴であり、彼らが神の意志を全うする契りでもある十字架。神は天使を通じて彼らに語り、大いなる力を与え給うた。ついに彼らの時代がやってきたのだ。
亡霊たちは木造の十字架の周りに大きな円を作り、それぞれの手に小さな木片を持って振りかざした。そして木片の切っ先につけた麻布に火をつけると、その火を1人ひとり隣の者の木片に送り、大きく燃え盛るリングを作った。
炎は彼らの高く尖ったフードと、その真ん中に開いた、目玉を縁取る深い陰を照らしだした。亡霊たちは何度か円を描くように行進してから立ち止まり、木片を中央に鎮座する十字架へと投げつけた。
投げられた木片の中には十字架に届かず、青々とした草や雑草を焼いたものもあったが、いくつかは十字架の足元にまで届き、数分後には大きな炎が上がり始めた。
赤き者は誇らしげな微笑みで、燦々と輝くオレンジ色の炎が麻布を伝わり、闇を切り裂き聳えるのろしが出来上がっていくのを眺めた。白い影の数人が喜びの声をあげた。赤い影も大きく叫び、そして手をあげて静寂を命じた。
「さぁ、兄弟たちよ」赤き者が深くかぶったフードの奥から呼びかけた。「黒人を狩りに行こう」
2
「あぁ、そして夜は哭いた~」
薄暗い照明に照らされ、後ろに響くバンジョーのリズムに合わせて彼女は歌った。腕を伸ばし小刻みに身体をくねらせながら。白いクローシェ帽から唯一逃れた、太く黒々とカールした一房の髪が、汗で顔の横に張り付いていた。細い肩には黒いファーのストールがかかり、キラキラと輝く白いドレスに垂れていた。
「探さないでと言っておくれ 私はもう二度と戻らない」
その小さな地下室では、黒人の男女が肩を並べてステージを囲み、音楽を聴いていた。タバコの煙でかすむ部屋の天井はあまりにも低く、男性の中にはまっすぐ立てず、前かがみにならなければならない者もいた。ハーレムにはこういった地下の密売酒場が多かった。ロクサーヌ・アーシャンボーはこれまでに、そのすべてのステージに立ち、歌っていた。
「心配しないでと言っておくれ だって私の中には悪魔がいるの」
身体の動きを止めることなく、ロクサーヌは頭を振り、歌っていた。一瞬、焼ける肌と燃え上がる血の記憶が頭をよぎったが、彼女は目を閉じ、魂を込めた呟きですべてを追い払った。彼女の後ろでは、大きく禿げ上がった頭を汗まみれにしながら、ガスがバンジョーをかき鳴らしていた。
「悪魔払いと親父にぶたれたけど もう親父はいないのよ」
曲がクライマックスに入る瞬間、ロクサーヌはくるりと一回転をしてその場にいる知り合いと、これから知り合いになるであろう人々を見渡した。すると、帽子を膝に抱え、片手でジンのグラスを持ったハンサムな青年がカウンターの端に座っているのが目に留まった。その眼はロクサーヌにくぎ付けで、彼女も彼の見た目を気に入った。彼の眼は子犬のようで、その腕は壁を打ち抜く槌の如く屈強だった。
「おぉ~ おぉ~ おぉ~ そして夜は哭いた~」
最後の寂しげな響きとともにバンジョーがようやく静まり、地下室は拍手と喝采の渦となった。多くの観客がロクサーヌにコインやドル札を渡そうとしたが、彼女は笑いながら首を振ってカウンターの後ろにいるバーテンダーの方を指さした。
「音楽を気に入ってくれたのは嬉しいけど、私たちここでぼろ儲けしようって言うんじゃあないの。感謝を示したいなら、皆さんシルベスター君のためにもう一杯飲んでくださらない?あのおっちゃんには子供が6人もいるのよ!」と、彼女はくすくす笑いながら言った。
客らはこれにもう一度拍手を送り、帽子を頭の上で振り賛成の意を表した。間もなく、人々はバーカウンターに列を作った。ロクサーヌはその様子を微笑みながら見ていたが、いつの間にかまたカウンターの端に座っている、子犬のような目をした男を見ている自分に気がつき、彼の方へ少し近づいた。そして腰にぶら下げていた小さなポーチからタバコを取り出して口に咥えた。クスッと小さく笑い、一瞬、白い歯を見せて笑顔になった後、彼はマッチを取り出して彼女のタバコに火をつけた。
「素敵な歌声ですね」ロクサーヌがタバコを吸いこむのを見つめながら彼は言った。「本当に素敵でした」
「火をありがとう」彼女は返事をすると、最後に一瞬、暖かい笑顔を見せてから向きを変えゆっくりと歩き出した。
「もうお帰りですか?」彼は呼び止めた。「出会ったばかりなのに!」
「ロクサーヌは忙しいんだ!少なくともお前のような野良猫とおしゃべりするよりやることがあるんだろうよ」と別の男が笑いながら言った。
ロクサーヌが地下室をゆっくりと歩く間、そこには笑いと喋り声が響いていた。一瞬、ロクサーヌの頭に、槌の腕の青年がデートに誘ってくる妄想がよぎった。きっと飲みながらたくさん笑い、お互いの笑顔が絶えない夜になるだろう。素敵な夜にならない理由はどこにもなかった。うまく行けば、きちんとした関係性にさえもなり得る。そして、夜が明けたら…
『そして、夜が明けたら…』
ロクサーヌの脳裏に浮かぶのは闇だけだった。そして闇がじわじわと剥がれ落ち、涙、叫び、そして肉が飛び血ほとばしる光景が晒された。彼がどれだけ良い人かは関係ない。どんな男性と出会っても、ロクサーヌがモンスターだということに変わりはない。誰かと親密になると、いずれボロが出る。周りの人々が彼女を目にして見えるものは、たった皮一枚。彼女が牙を剥いたらそれまでだった。最後には彼らが苦しむ羽目になってしまう。
バンジョーの手入れを終え、ケースにしまっているガスの傍まで歩き、ロクサーヌは彼に合流した。ガスは奴隷の身分から解放された両親の元に生まれた。奴隷解放宣言が発表されてすぐ、彼の両親はアメリカ南部から逃げようとしたが、それを実行するまでに10年もかかった。だがそのおかげで、ついにニューヨークにたどり着いた時には、彼らは南の音楽を広める下準備を十分整えていた。ハーレムが芸術的クリエイティビティで溢れるずっと前からガスはハーレムに住んでいて、そして彼は、ロクサーヌがフランスからの船を降りた時に最初に出会った人だった。ガスはロクサーヌにご飯と温かい部屋を与え、この新しい不思議な世界で「家族」と呼べそうな唯一の人だった。
ガスはロクサーヌの秘密を知っていた。彼女はずっと隠し通したかったが、あの頃のロクサーヌは甘かった。今では、誰かと親密になると隠すことができなくなるということを十分すぎるほどわかっていた。ガスに知られてしまったその時から、2人の関係が取り返しのつかないほどに変わってしまったのだ。彼は変わらず娘のように愛してくれたが、その感情に、新たに「敬虔な恐怖」が加わっていた。
ガスがすらっと伸びた細い腕でケースに入ったバンジョーを抱えた時、ロクサーヌはガスの禿げた頭や少し視力の弱い目を眺めた。風化した彫刻のような顔の彼は、控えめな黒いスーツを着ていた。
ガスはお腹をポンポンと叩いた。「腹は減ったかね?シャーリーが家でジャンバラヤを作ってるぞ」
ロクサーヌは疲れた笑顔を作って見せた。「ジャンバラヤはいつだって別腹だって、知ってるでしょ?」
ガスは笑いながら頷いた。2人はステージの裏にある、窮屈な地下室の上にある家への隠し扉まで移動した。
「また明日、ミス・ロクサーヌ!」客から声が上がり、皆は再び喝采した。ロクサーヌとガスは家に上がると隠し扉を閉め、そのまま倉庫まで続くがたがたの木造階段を上った。倉庫はリビングの一部をカーテンで仕切っただけのものだった。リビングの真ん中で、ラジオのイヤフォンを耳に押し当てた老婆が肘掛け椅子に座っていた。老婆は2人のミュージシャンが家の裏の路地へと通って行くのを、気にも留めない様子だった。
この日もまた暖かい夜で、捨てられた空き缶が裏路地に沿って、微かに感じる風にあおられ転がっていた。裏路地を東に進むと、ティンリジーで賑やかな125番街のアポロ・シアターの近くまで出るが、ロクサーヌとガスは西へ、ハーレムの中心にある、黒人たちを喜んで迎えてくれる住宅街へと向かった。
そして問題なくたどり着くはずだったが、最後の通りを渡るところで、フェリス製の黒いセダンが2人の行く手を遮った。月明りでは運転手の顔はよく見えなかったが、ロクサーヌにはもうわかっていた。
運転席から出てきたのはジョン・エドガー・フーヴァー。褐色のステットソン帽子の下に短い茶髪が垣間見えた。その青白い顔に笑顔はなかった。
「この辺にいると言われたんだ」彼は不愉快な声で言った。「実は―」
「今夜はダメなの」ロクサーヌはセダンを回りながら言った。「お願い、ジョン」
「まずは話を聞いてからでもいいだろ」フーバーは灰色のピンストライプスーツの腰にしっかりと縛りつけられた、銃の革ホルダーを手で直しながら軽い調子で言った。「今夜もお前の助けを待っている人がいるんだよ」
「でしょうね」ロクサーヌが立ち止まった。「今回はどんな子?2人じゃなくて3人姉妹?それとも赤ん坊?」
「家族はどうだ?」ジョンは陰気に言った。「みんなで大きな農家にこもってよ。お前がいないと朝までは持たんだろうなぁ…」
「行こう、ロクサーヌ」ガスは彼女の傍まで来て、彼女の注意を引こうとした。「夕飯が待っているぞ」
「それで?」ジョンは乾いた笑いを漏らした。「何軒かの家族が家畜のように虐殺されるというのに、お前らは温かい飯と居心地の良い部屋に帰るって言うのかい?」
「自分の仕事さえもちゃんとできない原始人のために命をかけて、仕事が終わったら町から追い出されるよりよっぽどマシよ」
「おいおい、俺はそんなことしないだろ?お前のことを心から尊敬してるんだよ、ミス・ロクサーヌ。お前とお前の…能力をな。申し訳ないけどさ、部下の捜査官たちの反応までは俺にはコントロールできないんだ。ましてや地方の警察のやつらは…」ジョンは目をぎょろっとさせて頭を振った。「計算がちゃんとできるやつを見つけたら、それだけでラッキーだと思うぐらいだぜ」
「そうね」ロクサーヌはジョンの方を向いた。「あなたみたいにうまく他人を利用するほどのセンスはないでしょうね」
「利用、だと?」ジョンは嘲笑ったが、眉のひそめ具合が彼の苛立ちをロクサーヌに伝えていた。「俺が、黒人が怒り狂った田舎者に殺されるのを見たいと思うのか?お前と同じぐらい、やつらを憎んでいるんだぜ。自分で1人残らず弾をぶち込んで終わりにしたいが…そうできないのも、なぜそれができないのかもお前にはわかってるはずだろ。だから俺は、親切にもお前にこの世の不正を正すチャンスを与えに来てやったんだ。ニューヨークの州警察さえもできないことをやり遂げる人間が今度も必要なんだ。悪いけど嬢ちゃん、それが他の誰でもないお前だ。パフォーマンスで疲れてるんだろうけど、少なくとも話を聞いてくれりゃいいじゃねぇか?」
ジョンの口から、あらゆる言葉がいとも簡単に踊り出た。ロクサーヌからすると、この男は最悪のマニピュレーターの類だった。つまり、最終的に自分の思った通りに物事が運ばれるように巧みに「真実」を利用するスキルを持っていた。ロクサーヌはガスの方をもう一度振り返ったが、彼はもうあきらめたように足元を見つめていた。
「行きましょ」ロクサーヌはほとんどため息のようにつぶやいた。彼女がセダンの方へ一歩踏み出した時、別の声が通りに響いた。
「もう1人要りそうな話ですね」
ロクサーヌが振り返るとそこに槌の腕の青年が立っていた。スリーピースのスーツに身を包んだ背の高いその姿は、月明りに照らされ、酒場で見たよりもさらに素敵に見えた。
「許してください、ミス・ロクサーヌ」彼は丸坊主の頭から帽子を取った。「盗み聞きするつもりはなかったんです。ただ、店を出た後にあなたとミスター・ガスが見えたもので、もう一回感謝を伝えたいと思ったんですよ」
「お帰り」ロクサーヌはできるだけ冷酷な声で言った。「これは君が関わるようなことじゃないの」
「確かに、車の見張りはいた方がいいかもな」ジョンは背の高い筋肉質な男を品定めして言った。「名前は?」
「エイブラハム・リーロイです」彼はロクサーヌの方へ一歩近づいた。
「バカ加減も身体と同じぐらい大きいみたいね」ロクサーヌは怒りに満ちた顔で彼を睨みつけた。「帰れと言ったはずよ。君は何もわかってないの!」
「わかっていますとも」エイブラハムのロクサーヌを見返す目には好意が溢れていた。「リンチを止めに行くんでしょう?」
「車の中で全部説明するから」ジョンは助手席のドアを開いた。「乗れよ。ガスは家に帰って、シャーリーにロクサーヌは晩飯に間に合わないと伝えてくれ」
「行くことはない、ロクサーヌ!」ガスはしかめっ面で叫んだ。「あいつへの借りは、もう10倍も返したはずだ!」
「そのためにやっているわけじゃない。わかるでしょ?」ロクサーヌは背を向けたまま言った。「シャーリーに愛していると伝えて」
ガスは頭を振って何とか踏ん張ったが、ロクサーヌも同様だった。エイブラハムの気まずそうな一瞥と、ジョンの「どうってことないよ」というようなひらひらさせた手を見ると、ガスはとうとう苛立った唸り声を出して行ってしまった。
「ほら、君の番」ロクサーヌはエイブラハムに向き直った。「早く行きなさい」
「僕は訓練済みの兵士です」エイブラハムは自信満々に言った。「きっと役に立つはずです。そして何よりも、ミス・ロクサーヌのお役に立てるなら光栄です」
ロクサーヌは腰に手を置いて苛立ったため息を漏らした。「君はヒーローね。本当に白馬に乗った騎士のよう。それに、間違いなく真の紳士よ。それが聞きたかったんでしょ?もうそれはわかったから、帰りなさい」
「もうそれぐらいでいいだろ?」ジョンは甲高く笑って言った。「そこまで行きたいと言っているんだから来てもらったらいいじゃねぇか。強そうだし、2人よりはちょっとは賑やかになるだろ?」
「目的地さえも聞かされてないのに」ロクサーヌはセダンの開きっぱなしのドアを手で塞いだ。「ウェストバージニア州はもう二度と行かないから、ね?」
「サリバン郡のウッドリッジ」ジョンはパールのような白い歯を見せつけるように笑った。「車で1時間ほどの、穏やかな田舎町さ」
3
エイブラハムと共にジョンのセダンの後ろに座ったロクサーヌは、ニューヨークシティの光が闇に飲まれていくのを眺めていた。大都会の向こうに広がるのは暗い田畑、深遠の森、そしてうねるように続くアパラチア山脈だった。
車のオレンジ色の照明が未舗装の平らな道路の上を滑って行く様を見ていると、「逃亡」の感覚が再びロクサーヌの心の奥から沸き上がった。アルザス=ロレーヌから初めて出た時はさらに窮屈だった。大きな箱の間に体を挟んで、ロクサーヌはできるだけ動かずに息を潜めていた。フランスからの逃亡時、あらゆる手段を使ってドイツ帝国の眼を搔い潜ろうとしたのは、捕まったら死よりも酷い結末が待っているのがわかっていたからだ。彼女はこれまで何度も自殺を試みたが、いつも失敗に終わった。ようやく自分には楽な死に方は不可能だと悟り、帝国が本物の化け物をその手にしていることに気づいたら彼らが何をしでかすかを想像すると、それより恐ろしいものはなかった。
ロクサーヌの両親はすでに死んでいて、それは自分のせいだった。自分の存在を丸ごと消したくなるような気持ちでいたが、そんなにうまくは行かなかった。そして彼女は1人ぼっちでさまよった…ジャズに出会うまでは。ジャズによってアメリカに導かれると、ロクサーヌはハーレムでブルースと出会い、その後は二度と振り返らなかった。
彼女の物語が「音楽」で終われればどんなに良かったことか。群衆の前に歌い、観客の顔に現れる笑顔と涙を見るたびに、その時々の安らぎが彼女の心を洗い流した。だがそれも儚い幻だと理解していた。ロクサーヌは、永遠に自由を知ることはない。モンスターが呪いから逃れることはないのだ。
「エイブラハムはいつからニューヨークに?」ジョンはまるで早く沈黙を打ち消したいというように突然、喋り出した。
「1913年からです。家族と一緒に引っ越して、戦争の間は軍に入り、1918年のクリスマスにようやく戻ってきました」
「そうかい」ジョンはバックミラー越しに、エイブラハムを感心したような目で見つめた。「じゃあ、レッドサマーの時にはいたんだな」
「そうですね。正直言うと、アラバマにいた時のような感覚でした」
ジョンは皮肉な笑いを漏らした。「黒人があんなに急に市内に入ってきてさ。住民どももどうすればいいのかわからなかったんだよ。もう町が乗っ取られると思っただろうな」ジョンがまた笑い出した。「俺の見解を聞くかい、エイブラハム君?レイシズムはね、恐怖から生まれるんだぜ。変化への恐怖、不安への恐怖…決断への恐怖。お前さんはどう思う?」
「賛成ですね」エイブラハムは一瞬、眉を震わせてから言った。
「レッドサマー、懐かしいな。」ジョンは物思わしげに続けた。「あれは本当に狂った夏だった。まさにその夏に俺とミス・ロクサーヌは出会ったんだよ。4年も前になるな…黒人の密売酒場をぶっ壊そうとしていた白人の集団を1人で片付けたんだ。白人を殺すのがあんなに上手い黒人女性に会ったことがなくてな」ジョンは感心した笑いを見せながら頭を振った。「1回もな」
ロクサーヌは横で言葉を失っているエイブラハムの顔を見て、それからジョンを睨みつけた。「ウッドリッジの事情を説明してくれるんじゃなかった?誰も思い出になんか浸りたくないし、私も早く忘れたいところなの」
「すまん、すまん」ジョンは同情するように手を振った。「ただ、エイブラハム君がわざわざ手を貸してくれたし、少し教えてやらないとと思ったんだ」
あぁ、忘却なんて。忘れることができたらどんなにいいか。ジョン同様、あの人たちがなぜその夜にロクサーヌが歌っていた密売酒場を襲ったのかも、侵入して誰が最初に銃の引き金を引いたのかも最後までわからないままだった。しかし暴力の気配を感じ、顔にショットガンが向けられた瞬間、ロクサーヌの中のスイッチが入ったのだ。あの日アルザス=ロレーヌの小さな館に炎と死を召喚した、爆発した怒りと同じだった。そしてその晩、ロクサーヌは白人の一団を1人残らず殺害し、ジョン・フーバーがその第一発見者となったのだった。なぜ彼がそこにいたのかは今だに謎だったが、確かに無政府主義者のイタリア人の捜査の途中だったと言われていた。
「そうそう、あの時、俺が最初にミス・ロクサーヌを見つけたんだ。かわいそうにね」ジョンは一瞬黙ってから、ロクサーヌの注意を無視してまた喋り出した。「指名手配人にならないように、俺が事件を片付ける書類まで作成してやったんだ。だって想像してみろ。黒人で女性、しかも移民なんて。それより危険な組み合わせがあるか?こんなに才能があるのによ…できるだけのことをしてやろうと思ったのさ」
「チャンスを見つけたのよね」ロクサーヌが割って入った。「そして私には他に選択肢がなかった」
「おいおい」ジョンの乾いた唇が気分を損ねたようにゆがんだ。「それはちょっと傷つくなぁ。この数年はお前が俺の一番の頼りだったから、俺もそれぐらいのお返しはしてやったはずだ。俺らがやってきたことを思い出してもみろよ?お前が1人で救った命の数を数えたことあるか?」
ロクサーヌは騒々しく黒い夜景に視線を戻した。救った命の数は無論、数えたことがある。ジョンと彼の上機嫌なわがままに対して感じる憤りはあったが、それでも彼が、彼女に懺悔するチャンス―つまり、罪を相殺するために徳を積むチャンス―を与えたことに変わりはない。いくら懺悔しても罪の意識は大して消えなかったが、それでもないよりはマシだった。
「でもちょっとわかりません」エイブラハムは2人を交互に見やった。「だって政府の人間でしょう?そこまで権力があるなら―」
ロクサーヌはエイブラハムの腕をしっかりと掴んで見上げ、黙って首を振った。
「余計なお世話だ」青い目でバックミラー越しに睨めながら、ジョンは冷たく言った。「お前さんの知ったこっちゃない。いいな?」
不気味な静寂が続いた。ロクサーヌは、エイブラハムの温かい腕を握っている手を少し緩めた。外では細長い草の葉が夜に踊り、時々雲の間から月が顔を出すたびにキラキラと光っていた。
「今朝、起こったんだ」ジョンがバックミラーを一瞥し、2人が聞いていることを確認してから不意に話し出した。「アニー・ミルチというウッドリッジの裁縫婦が破れたドレスのまま警察署に逃げ込んで来て、黒人が早朝に窓から侵入し乱暴したと言った。俺はそこにいなかったから細かいことは聞いてないが、夕方に町にたどり着いた時には、逃亡した受刑者が彼女をレイプしたという話になっていた」
「受刑者?」ロクサーヌは疑り深い目で聞いた。「目撃者はいた?」
「1人もなし」ジョンは頷いた。「だがサリバン群の保安官が捜索隊を出したところ、夜中に囚人の護送車が転覆していたことがわかった。車の中で運転手と囚人が1人死んでいるのを見つけたようだが、リストに名前のあったやつらは他に1人もいなかった」
「つまり」ロクサーヌが続いた。「白人たちは町の誰かが囚人を匿っていると推測したのね」
「推測ってよりもうちょっと強い感じだったみたいだぜ。俺が聞いている限り、保安官は法に則った手順で事件を調べていたが、町の他のやつらからしたら、ちんたらしているように見えたんだろうな。やつら、数時間で自分たちで捜索隊を作って、町の東側に住んでいる黒人たちに聞き込みし出したらしい。ああ、そして数人は飲んでいたんだろうな…こういう流れ、もう聞き飽きただろう?その流れで、不幸にもその午後に家にいた黒人男性が何人かボコボコにされた。一人は頭を銃でぶち抜かれた。もう一人がついに吐いたが、そりゃ拷問されりゃ誰だって吐くだろうよ。そいつの話によると、地主のジェイムズ・キルナーが、朝、町に逃げてきた黒人を匿っていたんだとよ」
ロクサーヌは舌打ちして眉をひそめた。「保安官からの連絡はそんなに時間がかかったの?」
「いや、連絡はなかった」ジョンは冷たく言い放った。「実を言うと、うちの知事が昨日からハンティング旅行に出ててさ。親切な保安官様がわざわざ「問題ない」と電報を送ってくださったらしい。州警察の一人が午後に偶然、酔っぱらって怒鳴っているやつらを道で見つけてさ。そいつら一旦ウッドリッジを出てさらに人数を集めようとしていたらしいが…あろうことに、つい先日、サリバン群のどこかで白人主義のデモがあったらしい。クー・クラックス・クランのいつものように女性の純粋さを守るだの、本当のアメリカを取り戻すだの、移民の危険性だの、そんなくだらない主張をしてやがったみたいだが、ウッドリッジの誰かがそいつらの宿泊先を知っていて、応援を求めに行ったらしい」
一瞬、車の中がしんと静まり返った。戦慄が走り、ロクサーヌは自分の表情が沈むのを感じた。「クランは今、ウッドリッジに?」
「間違いなく向かってるぜ。保安官はすでに主導権を失って、走り回って町の黒人たちに逃げるか工場に避難するかを呼びかけるしかできなかったらしい。少なくとも、ウッドリッジから出ればまだ安全だと言ってな」
「キルナーはどうなりました?」エイブラハムが聞いた。「その、逃亡者を匿った男性です。」
「あ、あいつな、面白いことに…白人だよ。ユダヤ人の。クランにとっては大して違いはないけどな。やつは夕方に黒人の隣人たちを集めて地下室に集めた。その後、暴徒の一部が家を包囲し、あとの半分がクランを呼びに行った。キルナーを罵ったり、挑発したり、外に出るように呼びかけたり。数人が窓から侵入しようとしたがキルナーに撃たれた。さらに銃撃戦が続き、一人の若い黒人が家の裏口から逃げるのが見つかって…ボコボコにされて木に吊るされたんだ」
「で、そこが目的地なのね」ロクサーヌはため息をついた。「キルナーの家」
「さようで、お嬢様」ジョンは空っぽの道を横目で見ながらゆっくりと言った。「お化け軍団より先にたどり着ければいいけどな」
「やっぱり腑に落ちません」エイブラハムは不安そうにロクサーヌとジョンを見やった。「武器の数の問題ではないですよね…なぜ州警察や政府はクランと戦えないんですか?」
「なんだ、色々わかってそうな顔をしてるのに、ガッカリだぜ」ジョンは笑った。「最近のクランのお面をかぶっているのは誰だと思う?エイブラハム…新しい時代の赤っ首野郎か?あいつらなら朝飯前だぜ。馬鹿なイモ野郎を始末するためだけに、俺がわざわざニューヨークシティまで出かけると思うかい?」
「えっと…どういうこと?」エイブラハムはまた言葉に詰まり、ロクサーヌの方を見た。
「ハーディング大統領はクー・クラックス・クランが大好きなのよ」ロクサーヌが静かに説明を始めた。「彼は『國民の創生』を観て以来、とにかくKKKを称賛しまくったの。あなたも真っ昼間にデモをしているのを見たことがあるでしょ?毎年、やつらはどんどん大胆に、誇らしげになっていく。そして黒人が北に引っ越せば引っ越すほど、白人はそれを恐れるのよ」
ジョンは深い同意を持って頷いた。「誰がお面をかぶっているのか知りたいか、エイブラハム君?上院議員。立法府の議員。警察官。やつらもバカじゃない…餌を撒いているのさ。黒人を拷問するのはただの娯楽…そうしながらも、やつらは自分たちの敵を引っ張り出そうとしているんだ。『反米の白人』が誰なのか、自分の権力が失われないよう誰に的を向ければ良いのか…アメリカの安全を護るためによ」
エイブラハムはたじろぎながら頭を振り、聴き返すのにどもってしまった。「じ、じゃあ、できることはないんじゃないですか?2人の言っていることが事実なら、僕たちみんな顔がバレてしまい、クランに目をつけられます。今夜いくつかの家族を救ったとしても次は僕たちが狙われて…」
「やつらがみんな生き延びたら、な」ジョンは悪魔のような笑顔を見せた。「そこでミス・ロクサーヌの出番だ。今夜はシンプルなお仕事だぜ。家の中に入って、隠れているやつら全員を安全に逃せばいい。その間、俺とエイブラハム君は車を見張る。どんなやつらが残っているのかわからんが、そいつらが歯向かったらやることはひとつ。酔っぱらいのまぬけしかいねぇからな。もう何度もやってきたことさ。今夜も変わりゃしねぇ、いつも通り決めようぜ」
「暴力は私に任せて」ロクサーヌは陰鬱とした地平線を見つめていた。「ジョンはただ証拠をすべて消してくれればいいわ」
「あいよ」ジョンはニヤッと笑いながら帽子を直した。「いつも通りでいいぜ。30分ほどで済むだろう。街はずれで部下の1人がワゴンの中に隠れてる。そこまで住民をエスコートしてくれ。あとは自由の身だ。簡単だろ?」
4
30分後、ロクサーヌたちはウッドリッジの入口まで来ていた。ジョンの約束通り、退屈そうな馬が2匹繋がれた大きなほろ馬車が道の脇に停まっていた。町への小道は、徐々に舗装された大きな道路となり、町の雑貨店、郵便局、そして東へ西へと続く民家が見えてきた。
キルナーの家よりもはるか手前に炎が見えた。中央通りを抜けて町の東側に入ると、家が数軒と、教会が燃えていることがわかった。数人の白人の男たちが松明とショットガンを持って舗装されていない道路の脇を歩いているのが見えたが、セダンのスモークガラスのおかげで後部座席の2人が向こうに気づかれることはなかった。
ロクサーヌは燃えている家を見るたびに、父と母の焼けた死体を思い出した。3人で部屋の片隅にうずくまっていたはずが、次の瞬間には両親は血みどろの姿で床に転がっていた。そして炎が、まるで待ちきれないとでもいうように、すでに命の抜けた亡骸を燃やそうと迫ってきたのだった。誰よりも愛してくれた2人を自分の手で殺めたことはロクサーヌの心に重くのしかかり、その恐ろしい思い出を頭から追い払うのにすべての力を振り絞る必要があった。
ジョンは大きなサトウカエデの木々の周りを車で回ってから、車庫に続く私道にたどり着いた。広々とした庭の奥に家があり、そしてその前に陣取っている武装した男たちが見えた。その横には焚火とベイクドビーンズの空き缶、さらに後ろには、馬車が何台かと馬たちが木に縛られていた。2人の男が松明と灯油と思われる缶を車道の方へ運んでいるところだった。
ジョンは車を停めて降りた。「おいおい、何しやがるんだよ。逃亡者を見つけるんじゃなかったのか?なんで町まで燃やす必要があるんだ?!」
「別に全部燃やそうと思ってないさ」背の高い赤毛の男が答えた。「こっち側だけだ。あいつらがレイプ魔を解放するまで、1時間にひとつだ!」
「もうやめろ」ジョンは冷たい視線で2人を追いながら、厳しい口調で言った。「ここまでしておいて、保安官が知らんふりをすると思うなよ」
「保安官はいねぇよ」背の低い、顔にあばたのある男が笑って言った。「黒人に忠告するのに忙しすぎるんだろ」
「それより」背の高い男が続けた。「俺らはもう代行者なんだよ」
ジョンはイライラした唸り声を出し、地面に足をこすり付けながら一瞬、車の方を振り返りロクサーヌを見た。湧きあがる怒りを必死でコントロールしようとしているジョンの張り詰めた顔に、汗が滴っていた。
「もう燃やさなくていいんだ」ジョンは穏やかに言った。「俺たちがあの家にいる者をみんな無事に出してやる」
この言葉に男たちは立ち止まった。ゆっくりと振り向いた男の大きく禿げ上がった頭には、困惑のシワが寄っていた。
「バカを言え」地面につばを吐いて続けた。「あいつらは夕方からずっと閉じこもっていて、しかもハンティングライフルまで持ってやがる。仲間が4人、窓から侵入しようとしたが、そいつらみんなぶち殺された。お前1人であの要塞を攻略できるなんてあり得ねぇんだよ」
「1人じゃないぜ」ジョンは開いたままのセダンのドアに手をかけ、中を覗いて頷いた。「交渉人を連れてきた」
ロクサーヌはため息をついてドアのハンドルに手をかけた。するとエイブラハムがすぐさま彼女へ手を伸ばした。
「外に出ない方がいいですよ、ミス・ロクサーヌ」彼の温かい手からは気遣いと心配が感じられた。「あいつらみんな酔っぱらいですから、何されるかわかったもんじゃありませんよ」
ロクサーヌはエイブラハムの方を見て唇から暗い笑いを漏らした。「エイブラハムは本当に可愛い人ね」
エイブラハムは困った顔をして少しひるんだ。「僕はただ―」
「もう車の中で大人しくしてて。あなたは最初からここに来るべきじゃなかったし、それに、私は君の死体まで背負いたくないのよ」喋りながら、ロクサーヌは自分の声が優しいトーンからだんだんと恐ろしい響きになるのを感じた。
「だって、武装していますよ!」エイブラハムは席から立とうとするロクサーヌに小さな声で叫んだ。
「その方が都合がいいの」ロクサーヌが言った。「その方がやりやすいのよ」
ロクサーヌが最後にもう一度振り向くと、身体から闇のエネルギーの強い波動が脈打った。彼女の茶色の眼が赤く染まり、その中には地獄の火炎のように燃え盛る小さなクリスタルまで現れた。エイブラハムの身体は凍り付いた。瞬きをし、何度も目をこすったが、その悪魔のような光は消えなかった。言葉を失い、エイブラハムは肩を落とし、口をあんぐりと開けていた。
「君はここに来るべきじゃなかった」ロクサーヌはもう一度言ってから頭を振り、ドアを押して外へ出た。「でも、話せてうれしかったわ」
「ま、待ってください」エイブラハムは開いたドアの方へ身体を寄せながら言った。「これを受け取ってください」
ロクサーヌが振り向くと、エイブラハムの分厚い手のひらに重そうな銅製のライターが見えた。
「ねぇ、酒場では本当にお世話になったけど、私は別にマッチを切らせてるわけじゃないのよ?」ロクサーヌは笑って言った。
「いや、これは…僕にとって大事なものなんです。戦争から帰ってきて、人生が変わった瞬間に手に入れた。あれからお守りみたいにずっと持っていたけど、今度はあなたに持っていてほしいんです」エイブラハムは手を伸ばした。「お願いです」
ロクサーヌはその男を見下ろした。彼はとても真摯に見えたが、悲しみと恐怖も感じ取れた。初めて出会った瞬間、彼の中にパワフルで言葉にならないほどの魅力を感じたことも思い出された。
『「万が一」があるとしたら?』
『万が一、彼が私のすべてを見て、それでも逃げなかったら?』
これまで何度もやってきたように、ロクサーヌは危険な妄想をすぐに捕まえ頭から追い出した。彼の手に置かれたライターに自分の手を重ね、もう一度エイブラハムを見つめてから、ライターを受け取ってその場を離れた。
車を一回りすると、燃えているものと灯油の臭いでロクサーヌの鼻はムズムズした。この場にひどく場違いな感覚は肌の色のためだけではなかった。柔らかい風にファーのストールと薄いドレスがさざめいたが、それも明日には新しく買いに行かなければならないだろうということが少し残念に思えた。
「なんじゃそりゃ」灯油の缶を持っている背の高い方の男がつぶやいた。あまりの驚きに缶を地面に落とした。「血迷ったか、ポリ公?!」
「やっぱりな」背の低い方も缶を落とした。「ポリ公も黒人好きかよ。保安官と何も変わりゃしねぇじゃねぇか」
庭にいた他の男たちも、ショットガンとハンティングライフルを手に、車に近づいた。ロクサーヌを品定めしながらも、信じられない様子で何かぶつぶつと呟いた。
「言ったはずだ」ジョンは相手を見渡した。「彼女は交渉人だ。ダチが死ぬのをもっと見たいか、逃亡者をとっ捕まえたいか。簡単なことだぜ」
「玄関に入った瞬間、そいつの頭はぶち抜かれるだろうよ」背の高い男がおかしそうに笑いながら言った。「動くものなら何でも撃ちやがる。しかも警察から送られてきたやつなら、黒人でも同じさ」
「撃たれるのが怖いか?」ジョンは振り向いて聞いた。
「特に」ロクサーヌは軽く答えてから、家の方へ歩きはじめた。
「中がどうなっているのかを調べてから犯罪者を連れてこい」ジョンが大声で叫んだ。これが、一団に、ジョンが完全に主導権を握っていることを見せつけるための策だとロクサーヌにはわかっていた。「早くこの方々が家族のところに戻れるように、さっさと事件を解決しようぜ」
「もう遅い」グループの1人が叫んだ。「もう、インペリアル・ウィザード様がこっちに向かってる!」
「そうだ、そうだ」別の男が言った。「あいつらはレイプ魔を匿っただけじゃなく、俺らに銃を向けたんだ!あいつら全員がよ!ジョー叔父さんとアールをぶち殺しやがった!許すもんか!」
ジョンはまた苛立って唸った。「じゃあ、あれだ。あいつらがみんな降参するように説得しろ。また変な気を起こさないように説得するんだ!」
「俺らに嘘をついてるなら痛い目に合うぜ、小僧」背の高い男が一切恐れを見せずに言った。「お気づきだろうけど、お前らは劣勢だ」
『私もここに来なきゃよかった』ロクサーヌは横目でにらんでくる男たちをできるだけ無視しながら通り過ぎた。『思ったより、かなり状況が悪化してきてるみたい。あの魂を押しつぶすような罪悪感さえなければ…』
家の白いフェンスの向こうには5段のコンクリート階段があり、家の端から端まである広々としたフロントポーチへと続いていた。一階には窓が4つ、左右にふたつずつ分けて、その真ん中に玄関ドアがあった。すべての窓は割れていて、2階にある5つの窓も同じ状態だった。閉ざされたボロボロのカーテンの裏から薄暗いオレンジ色の光が漏れていたが、中は静かだった。
ロクサーヌは、コンクリートの階段をゆっくりと登り始めた。3段目に足をかけた時、家の奥から低い声が聞こえた。
「誰だ」
「ロクサーヌと言います」彼女は顔を上げたまま喋った。「ハーレムでブルースを歌っているの」
「なぜここに?」
「話すためにです」ロクサーヌは手をあげた。「無防備よ」
「上がってドアを開けろ。鍵はかかっていない」
ドアフレームにはめ込まれた窓にぶら下がったガラスの破片に注意しながら、ロクサーヌは言われた通りにした。ドアは簡単に開いた。玄関が家全体に通じるような作りになっていて、2階に続く階段も見えた。
ロクサーヌが中に入ると、50代ぐらいに見える、白黒まだらになった髭のある白人男性が左側の部屋から出てきた。彼は壁に背中を向けたまま、ハンティングライフルを胸にしっかりと抱きかかえていた。デニムのオーバーオールのポケットというポケットに弾が押し込まれていた。男は目を細くしてロクサーヌを見つめた。まるで、そうしているうちにロクサーヌがいつの間にか消えていなくなることを期待しているかのようだった。
「ジェームス・キルナーさんですね」ロクサーヌは手を伸ばした。「ロクサーヌ・アーシャンボーです。はじめまして」
ジェームスは面食らいながらも差し出された手を取った。「あの男が本当にあなたをここに連れてきたのか?」
「これを止めに来ました」ロクサーヌは男を安心させるように合わせた手を握った。「窓から離れてさえいれば大丈夫です。約束します」
「信じたいが」ジェームスは疲れを吐き出して言った。「あの化け物らが今日しでかしたことを、君は見ていないだろう」
「やつらは化け物かもしれません」ロクサーヌが握った手に力を込めた。「でも、小さく弱い化け物に過ぎません。私を信じてください」
「やつら、無防備なばあさんを殺しやがった」ジェームスはつばを吐いた。「彼女は逃げようとしただけなのに。気が狂ってるんだ!もっと腕に自信あれば1人残らずやっつけたいところだがね。あいつらはな、この町の黒人を1人たりとも逃さず吊るし上げたがっているんだ。許せない。俺の町でこんなこと、絶対に許せん!」
「同感です」ロクサーヌは言った。「私も早く止めたいと思っています。他の方々は?」
「地下室にいる。俺はここに残って玄関を見張らなきゃならんからな。階段の裏から入ってくれ」
「ありがとう。そんなに時間はかからないと思います」
ロクサーヌは階段の横を抜けて台所に入った。食器棚が後ろの扉に押し付けられていて、裏の窓も全部割れていた。だがこの部屋で最も目を引いたのは、カウンターに突っ伏し、シンクに頭を突っ込んだ老女の死体だった。血と脳みそがリノリウムの床に飛び散り、倒れたボトルからこぼれ出た牛乳と混ざり合っていた。ロクサーヌはその光景を瞬時に確認し、2階へと続く階段の下にある地下室への扉を見つけた。
もろそうな木製のドアを押し開け、ロクサーヌはがたついた木の階段を降りた。小さな手すりは掴むとぐらぐらして、今にも壊れそうに感じた。
階段から下に見える地下室は石とセメントでできた壁に囲まれ、同じくセメントが塗られた床は汚れていた。上の階で彼女を出迎えてくれた温かいオレンジ色の光とは対照的に、地下室にあるのはチラチラと瞬くロウソクの光のみであった。
ロクサーヌが階段を一番下まで降りると、自分の方へ向けられた銃の金属音が聞こえた。広い地下室の真ん中に25人ほどの、様々な年齢のアフリカ系アメリカ人が集まっていた。ランタンを持っている者もいれば、毛布にくるまったり、木箱の上に座っている者もいた。若い男たちはみな、立ったまま銃を構えた。
「ロクサーヌと言います」彼女がゆっくりと喋り出した。「助けに来ました」
5
ロクサーヌは薄暗くかび臭い地下室に立ち、自分たちの家から追い出されたという黒人たちの話に耳を傾けていた。家からいきなり引っ張り出された者もいれば、道で尋問された者もいた。みんなそれぞれに悪夢のような体験があり、すべてを聞くには時間が足りなかった。ある者によると、逃亡者は10代の子供が3人いる夫婦に発見され、彼らは彼の話を信用して家に入れたそうだ。ただ、数時間後にはその家族も家から逃げるはめになってしまい、結局は「町で唯一信用できる白人」であるジェームス・キルナーの家で匿われることになった。ロクサーヌは、プレッシャーの汗が額を濡らすのを感じた。彼らの味方になろうとして、求められるだけ耳を貸そうとしたが、エイブラハムと地上の状況がずっと気がかりで仕方なかった。
「皆殺しにしようとしてるのさ!」タンクトップとスラックスを着た青年が叫んだ。「それぐらいわかってるよね?」
「そうはさせない」ロクサーヌは力強く言った。「急かすつもりはないですが、地上の状況が悪化しているので。レイプ犯とされた男性はどこですか?」
「なんでそれが知りたいの?」おさげの女の子が近づいたが、先ほどのタンクトップの男の一歩後ろで立ち止まった。きっとお兄さんだろうな、とロクサーヌは思った。
「彼と話したいの」ロクサーヌは注意深く答えた。「彼がリンチを受けずに逃げられる作戦を一緒に考えたいんです」
「あの人は悪くない」女の子は今にも泣きそうな顔をして言った。「あのクソ女が話をでっち上げたのよ!」
「ベッシ―、汚い言葉を使うな」兄の方が言った。「カールは潔白です。自分らでちゃんと尋問しました。彼はミルチ婦人の家にさえ近づいていないんです」
「よくある話なのはわかっています」ロクサーヌは兄とその妹を見やった。「その女性の親がやってきて、夫から受けている暴行の口実が必要だったのかもしれません。あるいは単なる憎しみだったかもしれません。似たような話はみんな何らかの形で経験したことがあるでしょう。しかしそれでも、私は彼の話を聞く必要があります。すべてはそれからです」
数秒後、住民たちはロウソクの灯に揺れる影の中でひそひそと論議した。そしてついに、2人の男が前へ進み出た。「僕たちが案内します。焼却炉の部屋にいますので」
ロクサーヌは2人の後をついて行き、地下室の隅にある木の扉を通って、壁に銅管が走っているかび臭い小さな部屋に入った。古い道具、積まれた丸太、そして向こう側の壁に張り付いている大きな焼却炉が目に入った。その隣に、水の入ったグラスと一緒にうつむく、大きな、髪の禿げた男がいた。二の腕に巻いた包帯からは血が滴っていた。彼は3人を疲れた目で見上げ、ロクサーヌがいるのに気がつくと慌てたように立ち上がった。
「そ、その人は?」彼は不安そうに聞いた。
「ロクサーヌ・アーシャンボーです」ロクサーヌは握手を求めて手を差し出した。「この酷い状況から皆さんを解放するために来ました。お名前は?」
「カール・クローバー」男は恥ずかしそうな笑顔で答えた。「今日のことは本当に申し訳ないと思っていますよ、アーシャンボーさん。まさかこんなことになるとは…護送車が事故りましてね…」
「事情は聞きました」ロクサーヌはカールの片目の血管が切れているのをじっと見ながら言った。「事故の原因は?」
「野郎2人が、喧嘩を始めて…退屈だったから最初は遊びみたいなもんだったんだろうけど。急に片方がもう1人の首を絞めだして…運転手が一瞬後ろを見て、それがたまたまタイミングが悪かったのか、車が何かにぶっつかってそのままひっくり返ったんです。その時に1人即死しました。枝に刺さって…別のやつが手錠を壊して、鍵を見つけて僕たちをみんな自由にしてくれました」
「そこで傷ができたんですね」ロクサーヌは手を伸ばして、ゆっくりと指でカールの腕に残った乾いた血をなぞった。そしてその指の先をそっと舐めながら続けた。「罪状は?」
「武装強盗」カールはロクサーヌを不思議そうに見つめながら言った。「僕と同じぐらいの身長のやつらといきなり集められて、そこで目撃者が、僕が一番犯人に似てると言ったらしいんです」
「でもやってないんでしょう?」ロクサーヌはきっぱりと言った。
「やっていません」カールは大きく首を振った。「銃なんか買ったこともないです。炭鉱で働いていました。あの車が転覆したとき、やった!と思いましたよ。神様が僕に光を当ててくれて…やっと人生を取り戻すチャンスが来たんだと思いました。だから逃げました。近くに工場があったので、そこの老人に近くの町の場所を教えてもらえました。そこで食べ物が手に入る、運が良かったら寝る場所まで見つけられるかもと思って。まさかこんな―」
「そうね、わかりました」ロクサーヌは頷いた。「申し訳ないけど、聞かなければいけないの。あなたは今朝、あの女性をレイプしましたか?」
「いいえ」カールは揺るぎない声と真剣な顔つきで答えた。「母の墓に誓ってもいいです。あの女性の髪の毛一本さえも触ったことがありません」
「わかりました」ロクサーヌは後ろの2人の方に向き直った。「皆さんの所へ戻りましょう。伝えなければいけないことがあって…その場にカールもいた方がいいので」
2人は不思議そうにロクサーヌを見てからカールをチラリと見た。
「それで大丈夫か、カール?」1人が聞いた。
「もちろんです」カールは温かい笑顔を見せた。「もうこの部屋に隠れてるのはこりごりだ」
地室に戻ると、真ん中に集まった人々は、カールを見てみるみる目を輝かせ始めた。カールは謙虚な笑顔を浮かべて彼らの所まで行き、全員の無事を確認し、数人とはハグも交わした。
「真剣な話に入る前に」ロクサーヌが口を開いた。「皆さんに歌を歌って差し上げたいと思っています。士気を上げるために」茶色の眼が悲しそうに光った。「カール、あなたに捧げます」
カールは木箱に座って、期待を込めてロクサーヌを見つめた。
「あの人、天使なの?」男の子がお母さんにひそひそとささやいた。
「魔女だと思うよ」女の子がつぶやいた。
「彼女がなんであっても、歌を聞きたいならちゃんと黙りなさい」ショートカットで巻き毛の太った女性がそう言ってロクサーヌの方へ頷いた。「失礼したわね、お嬢さん」
そしてロクサーヌは歌い出した。
「ん~ ん~ ん~ 今夜、私の鐘が鳴った 1マイルの向こうから、そう、はっきり届いたの」
ロクサーヌは歌いながらゆっくりとカールの方へ、リズムに合わせて身体をくねらせながら歩いた。彼は目を大きく開いてニッと笑い、一緒に身体を揺らした。
「傷は酷すぎて、医者も匙を投げた」
ロクサーヌはカールのすぐ前まで行くと、彼の足に手を置いた。カールは体の動きを止めた。まっすぐに座ったカールの眼はロクサーヌにくぎ付けとなり、肩の力が抜けたのを彼女は確認した。
「台所の窓の向こうに悪魔が見えた でもとくに気にならなかったわ」
ロクサーヌは手を持ち上げ優しくカールの禿げた頭を撫でた。彼は大きく口を開け、唾が一滴、その前歯から垂れた。彼の眼はロクサーヌにくぎ付けになったままで、彼の血管に脈打つ血をロクサーヌは感じていた。
「嘘を聞く時間も、トラブルに巻き込まれる時間も、そしてブルースを歌う時間もさえないの」
「何をしているの!」女が叫んだ。「カールに何をしたの?!」
「傷つけはしません」ロクサーヌは、カールの頭に手を置いたままそっと言った。「カール、ごめんなさいね。こういうことはしたくないんだけど、上には死体があるの。あなたを護るために人が死んだ。そしてその遺族は、彼らが何のために死んだのかを知る権利がある」
「はい…」カールからはさっきの陽気さは消え去り、ものうげな声で言った。「女王に…従います」
住民たちが一瞬にしてカールとロクサーヌから離れた。大きく見開いた目で不気味な光景を見つめ、男たちはもう一度銃を構えた。
「さあ、カール」ロクサーヌは甘い声で言い、母が子にするようにカールの頭を撫で続けた。「もう一度聞くから、今回は嘘を言っちゃダメ。あなたは今朝、あの女性をレイプしたの?」
カールの顔はプルーンのようにしわくちゃになり、目には涙が浮かんだ。「は、はい…」カールはうめいた。「そのつもりはなかった…ばったり会って…本当に長い、長いこと、女を目にすることはなかったんだ…彼女は窓の内側にいた。朝の太陽に照らされて….美しくて、完璧で…まるでそこで僕を待っているように思えた…」
ロクサーヌはカールから目を上げて、住民たちを見つめた。こわばった顔、今聞いている事実が理解できず困惑した顔、そして数人の顔にはゆっくりと怯えた表情が浮かび上がった。
「我慢できなかった…本当に久しぶりで…彼女が必要だった。とうとう神様が俺に素晴らしいチャンスを与えてくれているんだ、そう思った。だけど彼女は望んでいなかった…言うことを聞いてくれなかった…叫ぼうとしたんだ…」
「彼に何をした?!」ベッシ―が叫んだ。「カールが何故こんな話を…!」
「催眠じゃ」老人がつぶやいた。「本当に魔女じゃ!」
「そうです。催眠をかけました」ロクサーヌは静かに言った。「人に真実を打ち明けさせるための、数少ない手段の1つです」
1人の若い男が必死にカールとロクサーヌを見合わせたが、何を信じればいいかわからない様子で言った。「でも、そうなると…フィロメナばあちゃんが…頭を撃たれたのは…嘘つきのためだったってことに…」
「殺せ!」禿げた老人がライフルを構えなおした。「やつをぶち殺せ!」
「いけません」ロクサーヌは前に進み出て手を広げカールを庇った。「あなたたちに他人の命を奪う権利はありません。誰にもそんな権利はない…殺せば簡単に排除できる。でもそれでは最後に後悔することになりますよ」
「うるせぇ!」もう1人の男がロクサーヌに向けて銃を構えなおした。「魔女めが!」
黒人たちの間で混乱が激しくなるのを見ていると、パニックがロクサーヌの肌を這い上がってきた。『正しいことをしていると思ってた。みんなには真実を知る権利があるはずでしょ?でも真実が人の心を踏みにじるのなら、正直「すぎる」ということが存在するの?』
ここ数年の犯罪との戦いの中で、ロクサーヌは一度だけ嘘をつく被害者と出会っていた。たった一度。だがそれが、彼女をさらに疑り深い人間にしてしまっていた。その時から、彼女はあらゆる人の血を味見することにした。そしてカールの血は間違いなく、嘘つきの味だった。
『一度真実を知ってしまうと、秘密になんてできるわけない。彼らを説得しないと。どうにかして―』
突然、ライフルの音が鳴り響いた。ロクサーヌはできる限り素早く避けたが、カールの身体を引きずりながら、弾が腕をかすめる感覚が身体に伝わった。叫びと怒声が住民たちの間から飛び出した。ロクサーヌは、残る手段は1つしかないと悟った。
そしてロクサーヌは翼を広げた。肩甲骨の下の皮膚が裂けるのを感じた。大きく革のような翼が闇のエネルギーの波動とともに現れた。変身には大切なエネルギーを消費するが、正しい燃料さえ手に入れば、またすぐに満タンにすることが可能だった。カールを腕に抱えながら、ロクサーヌは大きく飛び上がって階段を一気に超え、台所の角を回った。ロクサーヌが1階に戻った頃には、弾がかすめた腕の皮膚はすでに再生していた。
玄関に戻ると、ロクサーヌはジェームス・キルナーが窓の横に戻りカーテンの隙間を大きく目を見開いて見つめているのが目に入った。
「彼を守って」ロクサーヌはカールをその男の方に放り投げてから、外を見渡した。
ジョン・フーバーの覆面パトカーの後ろに、馬に乗りローブを纏った男が3人いた。馬たちは3頭とも、頭と脇腹の所に赤い円に白い十字架というシンボルが描かれた、長くて白い布に覆われ、目の部分だけに穴が開けられていた。乗っている男たちも同じような白いローブと先の尖がった白いフードをかぶっていて、こちらも目の所だけが穴になっていた。左右の男は普通の白いローブを着ていたが、真ん中の男のローブは輝く緑色だった。
ロクサーヌは家の窓から、白人たちが新たに現れた3人の方へ振り向くのを見ていた。同時に、武装した黒人たちが地下室から上がってくる足音も聞こえた。
「あっという間に囲まれるだろうな!」ジェームスは焦ってささやいた。「逃げ場がなくなる!」
「多分、もうすでになくなっています」ロクサーヌは気持ちが沈むのを感じた。「まさかこんなに早く状況が悪化するとは。ごめんなさい」
逃亡した住民が2人、ロクサーヌの背後まで走り寄り銃を構える音を聞いた時、パチッという大きな音が鳴り、ロクサーヌの身体から再び闇のエネルギーが溢れ出た。一瞬にしてロクサーヌの眼が赤く燃え上がり、両手は2人の方へ伸び、すぐさま彼らの首を廊下の壁に押し付けた。ロクサーヌの肩から伸びた柔らかい肌は硬く炭化し、拳は灰色のかぎづめとなった。指からも鋭く黒い爪が伸び、後ほんの数センチで、か弱い人間の首を刺そうとしていた。
「やつを殺すな」ロクサーヌは唸った。「家の中にいて。お互いを守るの。お願い」
地下室から上がってきた他の者が、ロクサーヌの化け物のような姿を目にした瞬間に立ち止まった。彼女の爪によって身動きが取れない2人は、何もできず目を見開いて見つめていた。彼女がなんとかして説明し、理解を得ようとしたとき、農家の前庭から大きな声が轟いた。
「勇ましいアメリカの兄妹たちにご挨拶申し上げます」男の声が大げさに宣言した。「約束通り、騎士たちが集いました。インペリアル・ウィザード様とその10人のジーナイ、20人のグランド・ドラゴンとそのグランド・タイタン、フューリーたち、そしてまたグランド・ジャイアントとゴブリンたち―つまり、先日のデモに参加した我々の同朋すべてが召喚されました。今夜こそ、優れた者の人権を踏みにじる少数派の暴徒に、神の怒りの鉄槌が下されるのです!数分後、唯一無二の神に捧げる偉大な碑が建てられ、我々の同朋が大天使の如く、正義の稲妻のようにこの町に降臨いたします!」
男の低い声は庭じゅうに響き、壊れた窓を簡単に飛び越えて玄関にも届いた。ロクサーヌはゆっくりと2人の男を放し、その顔を見合わせ、自分たちがどんな危険な状況にいるのかを適切に理解できているのかを確認してから、また窓の向こうを見た。庭では住民たちのグループとジョン・フーバーが唖然として3人のクランスマンを見上げ、必死でこの熱のこもったスピーチについていこうとしていた。
「我々はもうこれ以上、この虐待を放置いたしません!」緑のクランスマンが続けた。「何度も何度も、劣性人種たちが我々にもっと、もっと、と迫り、神が我々に下さった人権と自由を奪ってきたのです!黒人、移民、ユダヤ人、カトリック教の輩が!そしてやつらが代わりに我々に何を返したのでしょうか?我々の女性をレイプし、子供を虐待し、我々が血と涙で稼ぐ給料を奪っていくのです!もうこれっきり、これ以上の犯罪は許さない!今夜、我々はウッドリッジを槍玉に挙げるのです!優れた白人人種に歯向かう者、神からいただいたものを奪おうとする者に忠告を送る!今夜、我々はアメリカの純粋のために立ち上がり戦いましょう!そして歯向かう黒人を1人残らず木から吊るすまで、我々が止まることはない!」
そして使者が話を終え空に向かってピストルを撃つと、一団は喜びと称賛の声を上げた。まるでそのタイミングを待っていたかのように、ジョンは少しつまずきながらも踵を返しセダンの中へ飛び込んだ。エンジンをかけると、白いクランスマンの1人が車の後ろに馬を進め、男たちは車の前へ出た。
「お巡りさん、一体どこへ?」緑のクランスマンが静かにたずねた。「我々の勝利を目に納めるチャンスを逃すというのですか?まさか、政府に仕える兄弟たちが我々の行動に異議があるとは考えたくないのですが」
ロクサーヌはくるりと回り、武装した片腕をドアにぶつけ、残っていたドアフレームを粉々に砕いた。木の破片が夜空に散り、ロクサーヌはそれを鋭い爪の伸びた足で踏みつぶした。
「ねぇ」ロクサーヌの犬歯がゆっくりと鋭利な牙に変身した。「降参するチャンスは今しかないわよ」
6
「一体何なんだ…?」
ロクサーヌが農家の前庭に姿を現すと、庭にいた白人たちは一気に彼女を見つめた。鉄のように黒く染まった肌、指という指から伸びた鋭いグロテスクな爪は、彼女を真のモンスターのように見せた。目は血のように赤く光り、巨大な革のようなコウモリの翼が彼女の肩甲骨の辺りから伸びていた。ロクサーヌが息を吐くと、暗黒の霧が鼻孔から流れ出て、身体はくすんだ光に包まれた。
ロクサーヌはじっと動かず、下にいる男たちのぼう然とした顔を見つめた。忠告を聞く者は1人もおらず、それは次に起こることがはっきりしているということを意味していた。最初のショットガンの弾が放たれる前に、彼女は空の中へ跳んだ。翼を広げると陰気な渦が両方の翼の柔らかい内側表面に小さく波打った。下の男たちが慌てて銃を構えなおしたが、すでにロクサーヌの子どもたちが暗い瘴気のよどみから現れていた。
シャドウ・バットの大群がロクサーヌの翼からキーキーと金切り声を上げ飛び出し、ロクサーヌは飛んでくる弾丸をかき消したり、かわしたりしながら進んでいた。弾幕を逃れた体も顔もないコウモリたちが電車がぶつかるような勢いで突進し、男たちをはじいた。影たちは、銃を構える者の顔へ、その銃身を叩きつけたり、また男たちの身体をバク宙のように空中に蹴りあげたりした。
ロクサーヌは、最初に変身したときに身体から闇の霧が流れ出ていることに気がついた。アルザス=ロレーヌでのあの夜に、震える怒りから生まれた発見だった。得体の知れないその霧が彼女に力を与えてくれた。変身する力、影を強力なコウモリへと変えしもべとする力、人間に催眠をかける力、再生の力、破壊の力。代償を必要とする力ではあったが、身体に燃料を支給しさえすれば、その力が尽きることはないとわかっていた。
男たちの銃の武装を解除した後、ロクサーヌは家の周りを飛び回り、刺客を1人残らず仕留めるために次から次へと影を森へ送り込んだ。前庭に戻ると、ロクサーヌは爪を伸ばして地面に降り、散らばった身体を踏みつけながら走り始めた。ヤードの向こう側ではコウモリの攻撃をすり抜けた男が2人、必死で弾の切れた武器にもう一度弾を込めようとしていた。肉と骨を砕く彼女の爪が、弾丸と何ら変りなく胸を裂く感覚を最初に感じたのは彼らだった。
ロクサーヌは、伸ばす時と同様の速さでその黒く分厚い爪を縮め、地上に降りた。それから、地面で苦痛にもだえている、特に健康そうな若者の身体を拾い上げた。躊躇なく口を開き、そして牙を青年の首の深くに沈め、彼女の身体が欲する燃料を収穫したのだった。ロクサーヌが若者の脈から直接、新鮮な血を吸うと、その男は苦痛の雄たけびを上げ、ビクビクと痙攣し始めた。今度もまた、嘘つきが持つ酸味のある味わいが彼女の舌を焦がした。男がのたうつほどさらに牙を深め、静脈と血管を嚙みちぎり男の生命力を吸収した。
ようやく、ロクサーヌが青年の身体を放した。ロクサーヌが一息入れると、その口から紅の筋が1本流れ出て、身体は常に薄い闇の霧を纏っていた。
彼女は辺りを見渡し、ジョンのセダンがないのに気づいて安堵の吐息を漏らした。一団の残りがクランスマンの馬の後ろに走った。明らかに、目の前の怪物に向けてもう一度銃を撃つのを怖がっているようだった。
鎖骨とファーのストールに血を滴らしながら、ロクサーヌは立ち位置を直し、張っていた翼を緩めた。「逃げるならどうぞ。私は正当防衛しかするつもりはないので」
「黒い悪魔め」緑のクランスマンがピストルを構え直して憤怒を漏らした。「サタンの売女が!」
ロクサーヌは緑のクランスマンが撃った弾を悠々と避け、馬で向かってくる2人の白い者たちとやり合う準備を整えた。洗練された動きで彼女は再び爪を伸ばし、2人を捕えて馬から引きずり下ろした。
歌うより簡単な作業だった。この歪んだ世界で真っ当な生活を送るよりもはるかに簡単…だがその分、内なる痛みは強烈なものとなった。彼女はこの呪いを持って生まれ、そしてそれは、他のどんな長所よりもはるかに血に深く刻まれていた。彼女は吸血鬼―あるいは、ロクサーヌに言わせると、殺戮のモンスター―として生まれ、しかしその事実を知るのが遅すぎたのだった。あの夜、怒りが彼女を支配するまで自分が普通の女の子だと思っていた。だが、彼女の中の悪魔が目覚めた。兵士たちが両親を殺そうとした瞬間、彼女は爆発した。爪、コウモリ、そして闇の霧がすべてを、彼女を引き取り、本当の親のように愛してくれた者たちをも貫いていた。
残った一団の1人がロクサーヌを撃とうとしたが、彼女は小さな弾丸をピーナツの殻のようにあっさりと翼で弾いた。彼女は眼をずっと緑のクランスマンから離さぬまま、爪をもう一度伸ばした。
そこでトランペットが鳴り響いた。
「我々はお前のような黒い悪魔を恐れない!」残りのクランスマンが中央通りの向こうにある西の丘を指を指しながら叫んだ。「我々は跪かない!兄弟たちが常に一緒にいるのだ!我々は大軍で強い!ほら、悪魔め、丘を見よ!聖なる十字架は燃え上がった!神の力は我々と共にある!」
ロクサーヌはトランペットの音を追った。1マイルほど離れた丘の上に、巨大な、燃え盛る十字架が見えた。それは陰気な空に輝くのろしのようだった。そして丘の端にはクランスマンの長い1列があった。白い者、緑、青のローブを纏った者もいたが、皆が自分の亡霊のような姿を照らすように松明を手にしていた。中央には唯一、真紅のローブを纏った者が立っていた。ニューヨークのデモや新聞記事で、ロクサーヌは彼を見たことがあった。通称「インペリアル・ウィザード」。彼がクー・クラックス・クランの北東支部のリーダーで、ジョンによると、表面上は上院議員だった。
「クランが立ち上がった」緑の者が、同胞が丘を駆け下りる姿を見ながら、勝ち誇ったように言った。「アメリカの救済は近い」
緑のクランスマンがもう一度ピストルの弾を放ったが、ロクサーヌはコウモリに変身して馬の腹の下をくぐった。馬はいななき後ろ足に立ち上がったが、彼女は熟練した動きで馬の背中に乗り、人間の姿に戻った。馬が狂ったように跳ねるなか、彼女は腕を素早く伸ばし、クランスマンが動けないようきつく締めあげた。
彼は抵抗しながらあらゆる罵声を口にしたが、ロクサーヌはそれをすべて無視し、静かに首に牙を立てた。彼女にはそろそろ新しい燃料が必要であり、彼の大きな声からすると、燃料とするのに十分な健康体のようだった。
男の首から黒い血が飛び散ると、ロクサーヌは驚きでひるんだ。腐敗した、酸っぱい液体が喉を焼き、彼女は素早く吐き出そうとした。その夜の2度目のパニックがロクサーヌを襲ったが、ロクサーヌは素早く爪を伸ばして男の脊椎から胸を貫いた。槍に刺さった魚のように男がビクビクとのたうち回るなか、彼女は皮膚と骨を砕く感覚を確かめながら、男の首から流れる黒い血を恐ろしさのあまりじっと見つめていた。
ロクサーヌは爪を引き抜こうとしたが、何かが引っ張り返した。眉をひそめて彼女はもう一度爪を引っぱり出そうとしたが、まるで万力で締められたように爪は動かなかった。怒りは募り、ロクサーヌは唸り声を上げて、馬が最後の一跳ねをして逃げようとしたタイミングで背中から素早く飛び降りた。緑のクランスマンの身体が一緒に落ち、身体の重さで爪が地面に引っ張られ、爪に痛みが走った。負けず嫌いな彼女は、男の身体に両足を踏ん張って一気に力を込めて強く爪を引っ張った。
ようやく、何かが千切れたような音が聞こえて、彼女の手は男の胸から飛び出してきた。その拍子に、反動で彼女の身体が後ろへと転がった。ロクサーヌは素早く立ちあがって死体を見つめた。おぞましい叫び声が無人となった庭に響き、緑と黒のまだら模様の触手が3本、胸の穴から震えながら現れた。まるで怒りっぽい猫のしっぽのように、前へ後ろへとひょいひょいと動いた。ロクサーヌの爪が引き裂いた、その触手の1本の根本から少しだけ黒い血が垂れていた。
ロクサーヌは大きく目を見開いたまま、目の前の光景を理解しようとしていた。それぞれの触手の先端には口のような穴があり、その穴からさらに小さく鋭い触手が、舌のようにうねっていた。だんだんと触手が大人しくなり、クランスマンのローブからずるずると這い出た。胸の穴から這い出てくるにつれ、その太さは増し、しまいには男の口、へそ、そして尻の穴へと入っていった。恐怖の眼で、ロクサーヌは男の身体が自ら立ち上がる姿を見つめた。腕や足は、まるで長い長い眠りから目覚めたように痙攣していた。低いシューッという音を立てながら、黒い血が目、耳、胸から流れていた。
ロクサーヌは立ち上がると、さっき聞いた言葉が口をついて出た。
「一体何なんだ…?」
7
住民たちがおっぱじめたことに始末をつけるため、クランが小さな炎のようにウッドリッジの東側にある丘から降りてきた。籠城を決め込んだ黒人家族の叫びが響き渡る家もあれば、ただ燃え続ける家もあった。ロクサーヌはその中に立ち尽くし、グロテスクな、人ではない何かがよろめくのを見つめた。身体から黒い血を川のように流すその男は明らかに死んでいたが、引き裂かれた胸から伸びた触手は、それでもなんとか男の身体を利用しようとしていた。小さな触手が激しく身体を侵食する様が、ローブの穴から垣間見える皮膚の表面にさざなみのように見えた。ロクサーヌは見ているだけで吐き気を覚えたが、逃げることはできなかった。
『こいつを生かしておくわけにはいかない』
ロクサーヌは革のような翼をもう一度広げて闇のエネルギーを迸らせた。シャドウ・バットが次々と深淵から飛び出し、その生き物に体当たりして後退させていた。攻撃を受けるとモンスターは叫び出し、クランスマンの腕や足のあちこちから小さな触手がムチのように飛び出した。しつこく死に抵抗する化け物に衝撃を受け、ロクサーヌの身体が一瞬固まった。それは、触手がコウモリたちを切り裂いてロクサーヌの方に向かっていることに気づくのに十分な時間だった。
ロクサーヌは必死で両方の爪を振りかざし横に避けた。小さな触手はそのまままっすぐ伸びてきて、彼女の爪の先端にしっかりと巻き付いた。触手は大蛇のように爪をぎゅっと締め付け、ロクサーヌを引っ張り込もうとした。近くで観察すると、触手の先端に小さな歯が山のようにこんもりと付いているのが見え、尖った先端は裏返って内側がむき出しに口のようになり、手あたり次第なんにでも噛みついて吸い付こうとしていた。歯を食いしばり、ロクサーヌは触手を1本クランスマンの身体から引き抜こうとしたが、びくともしなかった。
苛立ちの声を上げながら、ロクサーヌはまた両腕を広げ空へ飛びあがった。地面から10フィートの高さに達したとき、触手がピンと伸びたのを感じたが、ロクサーヌは手を緩めなかった。吠えながら翼を力強く羽ばたかせ、さらに上へ、一番近いサトウカエデの木へ飛び、クランスマンの身体を地面から起こすと触手を丈夫そうな枝に引っ掛け、それを跳び越えた。死体は彼女とともに持ち上がり、しばらく触手が2人の身体を支えるような形になった。とうとうビチッという音がして、ロクサーヌの爪から圧迫感が失せた。触手は断裂し、うごめきながら地面に落ち、クランスマンの身体は頭からベチャッという濡れた音とともに地面に叩きつけられた。
ロクサーヌは触手のかけらを踏み辺りの草を黒い血で染め、それから動かなくなった化け物に近づいた。黒くなった触手は、破壊され歪んだ死体の周りでもがき脈動していた。このチャンスを逃すまいとロクサーヌは走り、住民たちが集めていた灯油の缶を1つ手に取ってモンスターに浴びせると、エイブラハムからもらったライターを取り出して、火をつけた。キーキーという金切り声が響き、炎が得体の知れないぐちゃぐちゃの化け物を包み込んだ。
ロクサーヌは一瞬だけ息をついて周りを見渡した。町が燃え続けるなか、家の中は静まり返っていた。
突然、ロクサーヌは遠くからさっきとは別物のキーッという音を聞いた。バンッという大きな音もあり、自動車事故のようだった。翼を羽ばたかせ再びウッドリッジの空高く飛び上がった。暗い空ではすべてを見渡すことができた。クランスマンたちが黒人を家から引っ張り出しているところも、燃える家から上がっている煙も、そして町の入口で燃えているワゴンの隣で、ひっくり返っているジョンのセダンまでも。ワゴンもセダンも、馬に乗ったクランスマンに完全に囲まれていた。
ロクサーヌは舌打ちし、できる限り早く羽ばたいて空を駆け抜けた。闇の霧を目、耳、鼻や口から吐きながら、2台の車の真上までたどり着いた瞬間に彼女は大きく翼を広げて恐ろしい叫び声を放った。
再びシャドウ・バットが翼の闇から飛び出し、車の周りに立っていた6人の白いローブを纏ったクランスマンに襲いかかった。ロクサーヌの闇の霧が彼女の叫びに呼応して、跳ね上がる馬とその背中に乗って狼狽する人間たちを包んだ。まもなく霧がクランスマンたちの肺にまで侵入し、彼らが喉を掻きむしっている間に、ロクサーヌは舞い降りた。1人1人の首から噴出する血の色を確認しながら、彼女は全員から燃料を獲得し、消費されたエネルギーを回復した。
エネルギーを充電すると、ロクサーヌは車へ走った。傍に白いローブのクランスマンの死体が横たわっていて、車の扉はすべて開いていた。ロクサーヌは本能的に車の後部座席を見たが、そこは空っぽだった。
ロクサーヌの焦りは喉まで達し、前の座席へと視線を移した。中でジョン・フーバーが仰向けで横たわり、頭をダッシュボードにもたせかけており、その右手にはピストルを握っていた。足からが血が流れていて、ロクサーヌを見ると、彼はゴボゴボと音を立てながら笑った。
「これでお前は自由になったな」彼はクスクスと笑った。「もう俺に偉そうにあれこれ言われることはないんだからな」
ロクサーヌはジョンの言葉を無視しながら身体を細かくチェックした。
「とんだバカだよな、俺は」ジョンがつぶやくと、それに合わせ全身が震えた。「ったく、あの近親交配のキチガイ野郎どもが。信用したつもりはないが…なんでかな…まさか、俺まで撃たれるとは思わなかったよ。捜査局の副長官だっつぅの…俺まで殺ったらマズイだろうが。2人は撃ち殺したが、俺も…やられたな」声がだんだん枯れてくると、彼の言葉は少し歌っているようにも聞こえた。
「ジョン、脚しかやられていない」ロクサーヌは呆れたため息を漏らしながら車の中に入った。「そんなに喋れるならまだ大丈夫よ」
「エイブラハムが連れて行かれた」まるで一語一語に痛みが伴うようにジョンがうなった。「後ろから引きずり出された」
ロクサーヌは中央通りの方を見た。「何人か農家の方へ歩いているのを見た。さぁ、落ち着いて。傷を綺麗にするわ」
ジョンは咳をし、必死でタバコをユニフォームの胸ポケットから口へ運んだ。
「ロクサーヌ。お前がどれだけ自分のことを憎んでいるのか、わかるよ。顔を見ればぜーんぶわかる。少なくとも、俺にはな。そんなお前の笑顔を取り戻してやりたかった。誇りに思える何かを与えてやりたかった。自分の部下と何も違わないさ」
ロクサーヌはため息をついて、エイブラハムのライターでジョンのタバコに火をつけた。「こんな時に私を慰めるために嘘を言うの?見た目よりだいぶ元気なようね。」
ジョンは煙を深く吸い込み、笑いと咳が混ざったような痛そうな音を出した。「おいおい、全部嘘だなんて言うなよ。あぁ、確かにこれまで自分の保身のために色々やったけどさ。お前さんに全部片付けてもらうのは部下を使うよりだいぶやりやすかったがな…でも世の中そんなもんだろ?白黒はっきりしていることなんて珍しい。要は、だ。誰もが良いこともするし、嘘をつくこともある。この惑星にいるやつらはみんな…悪の種を持っている」
「もういいから」ロクサーヌはうなった。「安全なところで隠れなさい。エイブラハムを見つけ次第、逃げるよ」
「ああ…」ジョンはなんとかタバコをもう一度吸って、頷いた。「ミス・ロクサーヌの言う通りにするさ…」
ロクサーヌは車の扉をそっと閉めて街を見渡した。炎はゆらゆらと燃え続けたが、静かだった。結局、ジョンのことはあまりよく知らないままだった。妻や子どもがいるかどうかさえわからない、人種問題について本当はどう思っているのかなど知る術もなかったなと思った。一緒にいた時間は、イライラさせられることばかりだったけど、それでも彼のめちゃくちゃな作戦に何度も何度も乗って、いつかいい成果に繋がることをずっと願い続けた。結局、ジョンは彼の人生で何を成し遂げたというのか?彼の人生はすべて役に立たない間違いだったのか、ジョン自身に短所があったとしても、この世界に少しだけでも光を灯すことができたのか?
『答えがどうであれ、私がここで失敗すれば、すべてが終わる』とロクサーヌは気づいた。順調に進んでいたはずのすべての終わり。それが何であれ、ジョンとロクサーヌが2人でなんとか作り上げた「良いもの」の終着点。そして、やつらが彼に危害を加えるまでになんとかやつらに追いつかなければ、エイブラハムの人生の終わりになるかもしれないのだ。それに、さっき殺した化け物が他にもいるとなると、これは誰もが想像したことのない悪夢のはじまりでもあった。
8
ロクサーヌはジョンを後にした時、救われない気持ちが身体を包むのを感じた。燃える匂いが空気中に広がるなか、叫び声や鳴き声が町のあちこちから響いていた。ロクサーヌは少なくとも任務を途中で破棄するようなタイプではなかったが、この大量の無意味な死と破壊は、大きな重荷となり彼女の肩にのしかかった。
それでもエイブラハムの顔、そしてジェームス・キルナーの地下室に籠城していた住民たちのことは頭に張り付いて消えなかった。
『まだ終わっちゃいない。まだ救うことができる』
涙を誘うような感情をすべて封印し、ロクサーヌは翼を羽ばたかせて燃える町の上を駆けぬけた。彼女は数秒で炎を超えて農家に戻り、火のくすぶる緑色のクランスマンの隣に着地した。家屋の方を見ると、彼はそこにいた―一番近いサトウカエデから吊られて。
叩きのめされ血まみれのエイブラハムの身体は、枝に結ばれた縄に吊るされていて、彼の首を絞めつける輪縄を必死で掴んでいた。肌は灯油でテカテカしていた。下には白と緑のクランスマンが取り囲むように円になり、罵り笑いながら見上げていた。
耳をつんざくような雄たけびが夜を貫き、ロクサーヌは青白い亡霊たちの命を1人残らず吸い取ろうとする衝動に駆られて突進した。長く鋭い、黒い爪が白いローブ、皮膚と骨を引き裂いて、赤や黒の血しぶきを作り出した。クランスマンの1人は慌ててショットガンを彼女へ向けたが、彼女はすぐさまシャドウ・バットを飛ばして、ちょうど男が引き金を引くタイミングで銃身を彼の顎の下に向けた。
隙ができたのを見るとロクサーヌは空中で転回し、エイブラハムの身体を両手で捕らえた。飛びながら彼の身体を支え、さらに彼女は縄に噛みついた。首の後ろに結び目があり、そこから太い縄が1本続いていたが、牙があっという間にそれを引きちぎった。心臓の鼓動が止まらないよう気をつけながら上へと引っ張ると、エイブラハムのゼーゼーと息を切らす音が聞こえた。流れ弾が横腹を貫くとロクサーヌは痛みでうなったが、それは彼女の怒りの炎に油を注ぐだけであった。2人とも息を切らせながら、ロクサーヌはやっと縄を完全に嚙みちぎり、麻の繊維からは小さなブチッという音が聞こえた。
縄から解放され、ロクサーヌの力強い翼が腕に抱えているエイブラハムとともに空中へ押し上げた。彼女はエイブラハムを森の中へ運び込み、雑草や枝に覆われた土の上に寝かせ、彼がなんとか息を整える様子を見ていた。
「あなたの言う通りでした…」彼がついに咳込みながら言った。「ここに来るべきじゃなかった…」
「ここにいて」ロクサーヌは血まみれの手で彼の頭を撫でた。「1人残らず殺ってくるから」
「外にいるやつら以外にも、家の中に入る者もいました。でも、あなたも怪我をしている」彼は、彼女の赤く染まった左の脇腹を見つめた。「撃たれたんでしょう」
ロクサーヌは静かに立ち上がり、再び闇の霧を身体から放出した。赤い目が脈打ち、皮膚が再生し、身体の中から弾を押し出した。
「やつらに私は殺せない」
エイブラハムの眼は衝撃で凍り付いて、彼は無意識に胸に手で十字を描いた。「ミス・ロクサーヌ…あなたは一体…?」
「モンスターよ」彼女は悲しそうに答えた。「暴力に長けたクリーチャー。何か別のものだったらって思うけど。エイブラハム、心の底から願っているけど、どこまでも追いかけてくるのよ。逃れるために世界の向こう側まで飛んでみたけど、それでもダメだった。これが私よ」
「いや」エイブラハムは疲れ切った頭を振った。「それだけじゃない。あなたは美しい」
「ここにいて」ロクサーヌは背を向けて、必死で涙をこらえた。「誰1人としてあなたに近寄らせないわ」
ロクサーヌが森の底から飛び上がると、土や木々の葉っぱが強い風に舞った。クランスマンたちがちょうど森の入口までたどり着いたところだった。ロクサーヌが思った通り、触手が3人の緑のクランスマンの身体から伸びて死体を操っていた。白のクランスマンが2人、前に出るのをためらって、怯えながらショットガンを抱えていた。
ロクサーヌの真紅の眼が夜に光り、彼女は咆哮を上げて霧とコウモリを放出した。白のクランスマンとその弾はあっという間に粉々になったが、緑のクランスマンは立ち尽くし、異形の触手で弾をはじいた。
攻撃が静まると、ロクサーヌは倒したばかりの白いクランスマンの方へ走り、彼らの首に噛みついて、急いでできるだけのエネルギーを吸収した。その間も霧は身体の周りに流れ、深い雲のようにその身を包んでいた。緑のクランスマンがゆっくりと近づいてくると、ロクサーヌは足を地面に強く踏ん張って霧を爪で掴み、両方の手のひらに1つずつ濃い紫色のオーブを作った。
ロクサーヌはもう一度吠えると手の平からオーブを撃った。中央にいる緑のクランスマンに当たるとオーブがパチパチときらめいて、焼けつく花火となって爆発し、触手や手足が夜の中に飛んだ。
ほんの数秒、ロクサーヌは膝をついて息を整える時間を取った。この身体は非常に便利な武器で、燃料さえあれば働き続けることが可能だったが、頭と心はそうではなかった。疲労で頭はぼんやりとしてきていたが、それでも、彼女の怒りは心に燃え続けていた。
『エイブラハムを連れて逃げることもできるわ』誘うように力強い声が脳内に響いた。『もう十分頑張ったはずよ。ここはもう救いようがない。逃げて彼と一緒に平和を見つけなさいよ』
ロクサーヌは声を聞きながら農家の壊れた窓を見上げ、キッチンで見た、シンクに脳みそをブチ撒かれた老婆の死体を思い出した。
『いや』彼女は答えた。『そんなのがほしいなら、酒場から彼について行けば良かった。私はそんなことのためにここに来たわけではないはずよ』
ロクサーヌは最後にもう一度周りを見渡して、近くにクランスマンがいないことを確認し、なんとか身体を前に進ませて前庭の階段を上がった。
『自分にどれほどの痛みと苦しみが降りかかっても、どんな手を使っても住民たちを救い犯罪を止めるために来た。それが手から血の痕を拭えない、モンスターとしての義務だ。ここでやめるわけにはいかない。永遠にやめるわけにはいかないんだ』
ロクサーヌは農家の開かれた玄関口に入って横を見た。リビングではジェームス・キルナー、カール・クローバーとその他にも数人の男が大きな血溜まりの中で死んでいた。ジェームスの頭はきれいに身体から切り離されて暖炉の上に置いてあった。
ロクサーヌは足早にキッチンに向かい、そこで新しい死体を3体見つけた。すべての手足が綺麗に切り離されて切り刻まれた胴体の横に薪のように並べてあった。心臓が胸でバクバクするのを感じながら、ロクサーヌは急いで地下室への扉を開き、階段を一気に降りた。
広く陰気な地下室の真ん中に、身体のパーツで作られた魔法陣のような模様が見えた。腕と足が「結節」となる胴体を結んで、すべてが中央にある生首の円に続いていた。恐怖と痛みで固まった表情の男女、そして子どもたちの顔は、グロテスクな作品を囲むように並べられて、以前は住民たちが手に持っていた、チラチラと瞬くロウソクの光に照らされていた。
『失敗した…』ロクサーヌは、とうとう心の重荷を支えられなくなって、膝から崩れ落ちた。『1人も救えなかった…』
そして彼女は、目の端にその影を捉えた。薄暗い光に辛うじて浮かび上がる、真紅のローブを纏った姿。
「旧支配者への供物だ」インペリアル・ウィザードが影から現れ言った。「黒き者よ、お前もじきに彼らと共に行くのだ。そしてお前たちの血潮から、真のアメリカが蘇るであろう」
ロクサーヌは返事の代わりに、グロテスクな作品を飛び越えて男の太い首を掴んだ。彼はつばを吐き、両手で彼女の腕を掴んで外そうとしたが、彼女は強すぎた。
「さあ、つべこべ言わずに早く変身しな」ロクサーヌはうなった。「何度でも殺してやる」
ロクサーヌは掴んだ手をさらに締め付けて爪を男の首深くに差した。骨と筋肉を引きちぎり、男の身体は崩れ落ちて、残された頭も彼女の拳から転がり落ちた。身体がベチャッと床に落ちる様子を、ロクサーヌは身体から霧を放出しながら見ていた。
案の定、数秒後には、ロクサーヌはポキッという音、そして何かが分離するような音を聞いた。まるで見えない糸に操られているように、クランスマンのあばらが1本ずつ胸から開き、青白く骨化した華のように咲いた。胴体の皮膚は細かくリボン上に引き裂かれ、臓器が腹の中から噴出し、そして胸の奥に光る薄緑色の光が見えてきた。
それから腕が出てきた。長くてしなやかで青白いその腕は、深淵から伸び出て地面を手探りで這いまわった。ロクサーヌは爪を伸ばしてその1つを切り離そうとしたが、驚いたことに、緑色で太い触手が薄緑色の深淵から飛び出してきて伸びた爪を弾いた。また別の触手がそのあとに続き、ようやく青白い胴体が拾い上げられた。
その男は、長く紫色の髪で、顔、首、胸、腕にもオレンジ色の斑紋があった。彼が顔をあげると、ロクサーヌはその白い唇、鼻があるべき場所にあった小さな穴、そして彼女をじっと見つめる不思議な目を観察した。身体を取り巻いている複数の細い触手と深淵のように黒い瞳孔を囲む真っ白の虹彩がなければ、もしかして人間に見えたかもしれない。
と、突然よろめき、その生き物は裂け目から胴体を持ち上げ、細い太股を前へ出して胸に空いた空洞を蹴飛ばして開いた。男の青白い肌は黒いブツブツにまみれて、関節ごとに緑色の触手がいくつも機敏に蠢いた。とうとう肉の檻から自由になったそれは、滑らかなセメントの床に立ち、舐めまわすようにロクサーヌを見ていた。
「さぁ」彼はビロードのように滑らかな声で言った。「私を殺す準備はできたかい?」
9
インペリアル・ウィザードの胸から平然と歩き出したその生き物をロクサーヌは見つめていた。地下室の中は静まり返っていた。地上から届く叫び、焼け付く音、弾丸の音は届かなくなっていて、今にも消えるぞと脅すロウソクの光が、壁に危なっかしい様子でチラチラと影を落とした。まるでロクサーヌとこの歪な生物が世界から切り離され、2人だけの檻に囚われているようだった。
「どうした?」男の白い唇がニヤリと笑った。「ほら、殺せ。お前が私を殺すところを見てみたいんだよ」
何かがおかしいと感じながらも、ロクサーヌは深く息を吸って翼を広げた。目の前の男が何者であれ、それはとにかく今までの相手とは一味違って、その身体から染み出る自信はいつも対峙する者たちの無知で無謀な類ではなかった。それでもロクサーヌは攻撃を最後までこなし、新たなシャドウ・バットの群れを敵に送り込んだ。
彼が手の平をかざすと、身体が濃い紫色に光り出した。一匹のシャドウ・バットがその身体に当たると、包み込んだ半透明の紫色のバリアにかき消されて、残りのバットが後ろの壁を突き抜けた。ロクサーヌは走り出し、右手を振ったが、その生き物は股間の触手を鞭打ってロクサーヌの小指に巻き付けてその動きを止めた。突然捉えられたロクサーヌは勢いを止めることができず、そのまま空中で宙返りし、太い触手に締め付けられた爪が折れる鋭い痛みを感じた。
冷たく硬い床に頭を打ちつけ、ロクサーヌは痛みで叫んだ。たじろぎながらもなんとか素早く立ち上がろうとしたが、その前に強烈なキックが脇腹に当たった。焼けるような痛みが走り、身体が床から持ち上げられてそのまま魔法陣の真ん中に落ちた。人間のはらわたの臭いがロクサーヌの鼻をつき、彼女は手足をばたつかせて再び立ち上がろうとした。
「実に弱い」その生き物が落ち着いた声で言った。「まったく。人間どもにきっちりと首輪をつけられたな!」
ロクサーヌは苦しそうに息を吐いて、それが近付いてくるのを見つめた。外でザコの化け物を倒すためにやったのと同じように、霧のオーブをふたつ、手の平に作って飛ばした。彼に軽々とかわされたオーブも石の中に飛び込んでいった。
挫折と絶望がロクサーヌの心を支配した。『全部こいつのせいだ。こいつがみんなを殺したんだ…ここで諦めるわけにはいかない!』
ロクサーヌは叫びながら突進し、ありったけの力を振り絞って爪で切りかかろうとしたが、彼女の両手首ががっちりと捉えられた。彼女は必死で蹴り飛ばそうとしたが、身体は痛みできしんだ。決死の攻撃も強力な触手に弾き飛ばされ、ロクサーヌは後方へよろめいた。バランスを整える間もなく、股間の触手がロクサーヌの両膝の裏をピシャリと打ち、ロクサーヌは崩れ落ちた。
そこでコウモリに変身して影の中へ逃げることもできただろう。諦めることができたかもしれない。しかしロクサーヌの中の何かが―怒りと苛立ちで止められない何かが―諦めることを許さなかった。歯を食いしばり、ロクサーヌはワナワナと震える身体をもう一度持ち上げようとした。
「もう終わりか?」その生き物は、触手をロクサーヌの首に巻き付けていとも簡単そうにその身体を拾い上げた。「では、次はお前が耳を傾ける番だ。我らが戦う理由などないはず…我らの共通点が明らかになった今、なおさらにな」
ロクサーヌは乾いた口を開いた。「共通点などあるものか」
「いいや、あるのだよ」彼は股間の触手を腰に巻き付けた。「どっちも人間ではない、だろう?」
「お前は何者だ?」
「難しい質問だな」その生き物は答えた。「人間どもが私たち異界の住民にいろんな呼び名をつけちゃってねぇ。イヴシュヴァ、ネフィリム、デーモン…だが今は「エゲンズ」と呼んでくれ。そちらは?」
「ロクサーヌ…」
「混乱しているな」エゲンズが笑顔で言った。一見して当然のことを言って大いに楽しんでいるようだった。「お前は、なぜ殺さず生かされているのかがわからない、あるいは、なぜ私があの肉の袋に入っていたのかがわからない、と思っているのだろう…」ニヤニヤしながら身体が裂けた死体の方を見た。「インペリアル・ウィザードと呼ばれていたらしい。人間とは…本当にくだらないコスチュームとゲームを好むのだな。やつらを興奮させるのは本当に簡単なこと…無意味な大儀名分に命をかけさせるのもな」
ロクサーヌは死体を振り返り、エゲンズがその胸からどっと出てきたところを思い出した。「ずっと中に隠れていたの?触手で操って…?」
「まさか」エゲンズが顔をしかめて頭を振った。「あの肉の袋を被るなど…脆く不便なアレを?いやいや。単に寄生虫を中に仕込んでいたのだ。逃さないように、他の者と同じようにね。その方が管理が楽でね。ポータルを開く媒体にするのも実に容易なのだよ」
吐き気のする謎がゆっくり、しかし確実にロクサーヌの頭の中で解け始めた。「つまり…お前にとってはみんなペットだったってこと?モルモットだったの?」
「そうだ!ほら、やはりお前にはわかるだろう」エゲンズのモノクロの眼が明るく輝いた。「人間が犬や猫と遊ぶ時と同じだよ。犬が何かを盗んで誇らしげに歩き回ると、それを可愛いと思うのだろう?だが、人間が同じようなことをすると、なぜか自分たちは違うと思うのだ。インペリアル・ウィザードが議員になるのを手伝った時、どれだけ浮かれていたことか。私が耳元に「これも神の意志だ」と囁いたら、本当に犬のように…全く同様だった!」エゲンズが笑って続けた。「そこが私たちとの違いだよ。結局やつらはただの動物。もっとも下劣で卑しい種族で、私たちとはかけ離れた存在なのだ。同じレベルにもいるはずがないのだ」男は鼻で笑いながら、部屋の中央で魔法陣にされた手足へ手を振った。
「なぜここに隠れていた人まで殺した?!」ロクサーヌはかすれた声で叫んだ。「彼らは無実だったのに!」
「無実だと?」エゲンズは笑った。「確かに私たちの視点からすると無害とも言えるが、無実?彼らがしていることは、争い、盗み、戦争ばかり。その上、無知で傲慢で…そんな彼らより危険なものがあるのかね。無実ならばこの惑星を好きなだけ破壊していいのかな?この惑星、以前は人間が想像もつかぬほどの超越した者たちが住んでいたこの惑星を?」
「な…何の話?」
「旧支配者たちだ」エゲンズは、まるでどこかの大学教授が最新の発見を聴衆に説明するように、うっとりと称賛を求めるように言った。「人間どもが二足歩行を覚えるはるか前に、この惑星の形を作った方々だ。今もどこかにいて…聞いておられる。再びその力を求める者が現れるのを待っておられる。さあ、お前にも見せてやろう」
そう言って、エゲンズは血みどろの魔法陣へ手をかざした。緑色のエネルギーがその手から放出され、切り裂かれた手足や体をネオンの紋章のように光らせた。
「お前が何も言わないことが実に興味深い」エゲンズがニヤニヤしながら言った。「お前が何を考えているのか、当ててみようか。以前にもお前と同じような超越者と会ったことがあってね。人間どもに『人間の生き方に美しさがある』と洗脳されており、ひどく混乱していた。よりによって、自分をより人間らしくすることが、平和への道なのだと。そうやって彼らは自分たちを憎むように仕向けられた。可哀そうに、一1人残らず死んだよ…そこまで堕ちるとなかなか後戻りはできない。だが感じるのだ。お前にはまだ獰猛さが残っている。さらに上へと、さらに超越したいという願望が…」
地下室の床がひび割れ始めた。切り離された身体を包む緑色の光が炎のように闇を貫き、間もなく地下室全体が揺れ始めた。
「考えてもみたまえ。人間は、魚や虫なんかに無限の成長の可能性があるとでも考えているか?無論、そうは思わない。だが、バカげた自己愛に溢れた人間どもは、無知で傲慢なあの者たちは、なぜか生物の中で自分たちだけが支配する権利を持っていると思っている。たかが人間が!お互いに騙し合い、洗脳することに計り知れない時間とエネルギーを消費している人間どもがだ!お互いを恐れ、臆病になり、奴隷制度と殺人を正当化するためにを理由にするような輩なのだ。そう言えばお前の色素形成から見ると、その矛先を向けられたことがあっただろう」
ロクサーヌはすぐ横に、エゲンズの顔があるのを感じた。地下室が揺れ続けるなか、エゲンズははっきりと聞こえる声で彼女の耳元にささやいていた。大戦とそれに続くアメリカで見た暴力のイメージが彼女の頭を駆け巡り、それからジョンとエイブラハムの血まみれの身体が目に浮かんだ。
「信じられないだろう?」エゲンズが笑いながら続けた。「鈍くて弱々しい肉の袋どもが自分らを神や支配者に仕立て…儚い、虚空の安堵のためだけに、同じ種族の者より自分たちが賢いかのように着飾って!弱くバカげた傲慢な動物ごときが、とにかく自分だけを「特別」だと思いたい、必死になって自分だけは「免責」されるなどと思いたいのだ…我らにできることを、やつらはどんなに頑張っても成し遂げられるはずもなのに!私の言っていることがわかるはずだ、ロクサーヌよ。お前はこれまでに、やつらを憎んだことが一度もないのか?」
エゲンズの声が、揺れが大きくなるとともに同じように大きくなっていった。とうとう、魔法陣の置かれていた床が落ち、闇の深淵の上に浮いた緑色の紋章だけが残った。
「何度も何度も、人類の一部が世界を支配したという幻覚に陥り、実際に己らがすべてを支配している、この世にあるものすべてを手に入れる権利さえあると、自らを騙し続ける。戦士も神父も資本主義の豚どもまでが…これから起こることを知らずにな」彼がクククッと笑った。「人類の歴史に起る最大で最長の、緩やかな痛みを伴うが訪れるのだ。人間どもが残した遺産も、成し遂げようとしたことも、すべては無に還る。そして一番面白いところは、それがぜーんぶ自分たちの手で行われるのだ。それほどふさわしい結末はないだろう?お互いを破壊し合う道具さえ与えてやれば、やつらは間違いなく一番最悪な選択肢を選ぶだろう。ただ、一気にドカンとやって絶滅させるのは面白みが足りない…このような忌々しい種族であれば、数十年…数百年に渡る死がふさわしいはず」
エゲンズの言葉がロクサーヌの頭の中に突き刺さった時、床に大きな口がぽっかりと開き、深淵に浮かんでいたすべての死体のかけらを飲み込んだ。剃刀のような鋭い歯が5列、弧を描くように回り、奥から絶えない炎が何度も噴出された。その縁に紫色のブヨブヨとした唇が見え、地上に少しだけ顔を出した肌の部分には、トゲトゲした毛むくじゃらの触角が亡霊の指のように伸びていた。
「見よ」エゲンズが吐息を漏らした。「火貪獣ケップ・ガーだ」
その未知の獣を眺めていると、ロクサーヌは絶望の拳のふしくれた指の最後の1本に、彼女に残された希望とともに、心が握りつぶされる感覚を感じた。身体は冷や汗で濡れ、震えながら彼女はエゲンズと彼が召喚したモンスターを交互に見た。
『もう少しだけ…もう少しだけ時間を稼げば…』
「この町を襲うように命令したのも…みんなを殺したのも…お前なんだな」ロクサーヌはつぶやいた。「何のため?ただ…苦痛を与えたかった?」
エゲンズが肩をすくめた。「人間が虫を踏み殺すとき、なぜ踏んだのかを考えるか?いいや。見た目が気に入らないだけなのかもしれないし、それとも無意識に自分が優位者だから好きな時に虫の存在を抹殺する権利があると思っていのかもしれない。そんなはずはないのに…自己愛に酔いしれ、混乱しているだけなのだ。真に優位なのは我らだ、ロクサーヌ。私とお前だ。なぜなら、人間や動物になったことがない。教えてくれ、ロクサーヌ…お前は自分を憎むのか?」
「何がしたいの?!」彼女が叫んだ。
「答えるのだ!」エゲンズが叫び返し、触手で顔を激しく殴打した。「あの下等生物どもが自分を憎むように洗脳したのか?!」
「確かに、私は罪のない人々を殺めた」血走った眼から涙を流しながら言った。「私を愛してくれた人たち…殺すべきじゃなかった人たち…」
「お前の権利だよ」エゲンズが静かに言った。「お前はやつらの血を糧にして生きているのだろう。人間が、殺すためだけに牛を飼うのと同じように、お前も生きるために殺さなければならない。本能にしたがっていただけだ、ロクサーヌ」
「でも、私には愛した人間もいる。大切にしている人間だって」ロクサーヌは泣き叫び頭を振った。「私を洗脳しようとしているのはお前だ!」
「わかった、もういい」エゲンズがロクサーヌの肩に触手を巻き付けてゆっくりと近づき、青白いべたべたした手で頬を撫でた。「ロクサーヌ、初めは少し痛むかもしれん。真実とはそういうもので…痛い時もある。だがこれはお前のためだ。お前自身の成長…そして自由のためだ」
「私はモンスターじゃない。エイブラハムがそう言ってくれた」黒い霧を一身体にまといながらロクサーヌが強く言い張った。「今はお前を倒すほどの力がないかもしれない。そのモンスターだって、私たちをもろとも飲み込めるかもしれない。だからって…諦めようと思わない」
「好きに強がるが良い」エゲンズが締め付けながら答えた。「こうなってはなすすべがないじゃないか」
「やるべきことはもうやったよ」 ロクサーヌはニヤリと笑った。「どうしたの?匂いが分からないのか?あの奥の空間は、灯油で満たされた焼却炉の部屋で…お前の手下が炎であんなによく燃えていたもの、最初からまずバットで奥の壁に穴を開け、その先にあるものに穴を空けておいた。それ以来、この部屋からは灯油が漏れ続けているのよ」
それを聞いたエゲンズは、周囲を怪訝な顔で見回した。「灯油…?」
「あの怪物の名前はなんだったっけ?火貪獣?」ロクサーヌはポケットからエイブラハムのライターを取り出して、開けながら続けた。「こいつでも食らわせろ」
「待っ…」ロクサーヌがライターを落とし、床全体に火をつけた瞬間、エゲンズの台詞が途切れた。
一瞬だけの驚きで十分だった。ロクサーヌはありったけの力を振り絞って、エゲンズがバランスを崩した隙にミストを噴出させ、空へと飛び立った。同時に、地下室は炎と煙に包まれ、大爆発を起こした。ロクサーヌは咄嗟に飛び出し、息を切らしながら燃え盛る地獄から逃げ出した。
残った爪を盾に、1階の一番近い窓を破って夜空に飛び出すと、キルナー家全体が炎に包まれた。そのほんの一瞬前に、ロクサーヌは夜空へと消え去った。
『私は怪物じゃない…。そしてこれからもどんな困難があっても、私は絶対にあきらめない』
*
ニューヨークタイムズ
ニューヨーク―1922年8月8日土曜日
人種問題暴動で平和な田舎町が全焼
8月7日、ニューヨークのウッドリッジ―平和な町ウッドリッジが昨夜、町の東側に端を発した大規模火災で全焼した。最終的に炎は町全体に広がり、すべてを焼き尽くした。事件の発端は、白人の武装集団が、白人の女性を襲ったとされるカール・クローバーという名の黒人の逃亡犯を捜索し始めたことである。火災は、捜索途中の銃撃戦で起こった爆発が原因と思われる。発見された遺体はほとんどが全焼しており身元は不明、現在、死亡者数もわかっていない。
しかし、重傷を負いながらも州警察に救助された唯一人の生存者であるエイブラハム・リーロイ氏の証言によれば、彼を火災現場から救出したのは武装集団を説得するために一人で現場へ向かった黒人女性とのこと。
彼女が最後に訪れたと思われる家屋の地下室からは、おびただしい数のバラバラ死体が見つかったが、黒人女性とおぼしき遺体は発見されておらず、床には人間とも動物ともつかない毛髪と青白い肉片が四散していた。
今後はBOIの特捜チームが事件の解明に当たる模様だ。