Penny Blood Side Stories #1

Pleasure Doing Business

By Donna Grey

1919105

金属、汗、ゼラチン状の肉の香りが香水のように漂い、最後に口蓋を覆う。刺すようで苦く、それでいて心地よい。味蕾を刺激するような感覚もある。荒々しく、痛々しく、しかし美味い。

喉は小さな感覚の蜘蛛で満たされ、食道の奥から上へ上へとなだらかな波を描いて這い上がっていく。胃袋も一緒にうねり、毒のある胆汁が水音を立てて漏れ出そうとしている。蜘蛛は新鮮な筋肉の上に組織の網を作るように震え、脈打ちながら行進する。金切り声の刺激的な感覚が頬をつたい、脂肪のクッションに包まれ、その上に蜘蛛が網を何層にも丁寧に編んでいく。湿り、糸を引くような感覚。それは乾いてから汗と何か、何か温かく冷めることを拒むもので再び湿る。頬に温かな息を感じ、舌の裏側が下唇に被さる。心臓が味蕾に、自分とは異なるリズムでぶつかり、鼓動が高鳴する。心臓が舌を脇に追いやる。

蜘蛛の群れは速度を増し、体に新鮮な感覚を呼び起こす。新しい胴体に喜びがのしかかり、別の腕が何かを、誰かを求めて伸びる。皮膚に爪を立て、その下に暖かい液体が集まってくる。大きな手が尻に被さり、女の脚は腹に押し付けられ、身体の自由が利かなくなる。その手がすらりとした脛を這い、足首まで蜘蛛を追いかけると、彼女は出口のない陶酔の中に閉じ込められる。

蜘蛛が足先に触れた瞬間、彼女の感覚は爆発し、その虫は散り散りになる。それまで一様だった群れはそれぞれ混沌の中に溶け込み、急いで家路につく。蜘蛛が唇の奥に消えていき、悲鳴をこらえながらゆっくりと平静を取り戻す。ようやく、目を開ける準備が整ったと感じる。

男の髪は乱れ、少し湿っている。窓から差し込む夏の暖かな日差しが疲労で強張り、汗ばんで額に降り注ぐ。ニコライ・チュチェフ、ベッドの上以外では紳士的な男だ。彼女にとって彼の存在はパーティー会場を埋め尽くすほどで、周りに知られようが一切気に掛けることはない。小さく笑いながら彼の顔をそっと近づけると、胸の中で心臓がふわりと浮かぶような感覚に陥る。だがそれも束の間の事だ。

神経に引きつるような痛みが走る。不快な何かが浮かんだ心臓を引っ張る。地に引きずり下ろし、沼に沈め、泥で満たそうとする。日は暮れ、残るは死にゆく炎の灯りのみ。広すぎる部屋、大きすぎるアームチェアに気怠く横たわる男の向かい側、ドアと階段の木製の枠に彼女は寄りかかる。彼の元に駆け寄る使用人、火が壁に映し出す彼らの影の向かい側に。生を感じさせない男の手の中にあるティーカップを見つめる。使用人は男を揺さぶるとカップは開いた手から転がり、凝ったコーカサスラグの上にゴツンと音を立てて落ちる。彼女はカップに残った液体が一滴残らず絨毯の繊維に染み込む様を見つめる。

男は死んだ。

温かい手が彼女の横顔を撫で、ドアへと優しく引き寄せる。ベッドの上へと。ニコライの腕の中へと。夏の日差しが戻り、近くの窓から差し込む。1755年から彼女に付きまとう罪悪感の魔物を追い払う。夫が亡くなった年だ。前に進むのは早すぎるだろうか?ニコライ・チュチェフほど、彼女が心から信頼する男はいない。彼女の目に留まろうと長い列を作る求婚者の一人だが、彼女の正体を見抜き、真実、悩み、欲望を託すことのできる最初の人物でもある。彼の前では、彼女は湯水のように金を使う貴族のようだとは感じない。彼の前では、彼女は若い未亡人という身分を感じない。彼の前では、彼女は完全な女性だと感じる。

彼女は彼の首に腕を回して、目を離さない。その笑顔の曲線は彼女を揺るぎない自信で満たす。彼の目は空洞のようで、長く見ていると飲み込まれてしまいそうなほどだ。だがそんなことで目をそらしたりはしない。 自分が何を言っているのかは分からないまま彼に語りかける。彼女は新たな真実を、胸に秘めていた永遠への欲望を解き放つ。そして、彼の張りつめた集中は緩み、眉間にしわが寄る。もう、ダメかも。

彼の顎の筋肉が再び強張るが、その目は最早何も捉えず、彼女の心臓は鼓動を止める。胸の中でそれは鉛と化し、あの毒々しい胆汁が再び腸の中で跳ね上がり、蜘蛛が口から溢れ出て、氷の層を皮膚に広げる。まるで鎧のように。蜘蛛は彼女を次に来るものから守りたいようだが、感じるのは寒さだけ。影のような沈黙が重くのしかかる。

彼の唇が開き、そこから音が噴出する。歌だ。その口は言葉を形作ろうと動くが、彼女に聞こえるのは聖歌隊の声だけ。賛美歌がそれほど悲しいものでなければ、天使のそれと間違われるかもしれない。悲しみで重くなった生々しい絶望を吐き出すようだ。

唇は閉じることなく、聖歌隊の声は大きくなる。蜘蛛が肌を刺す。彼女はその口から目を離さない。唇の動きは異様だが、語りかけている。彼女がまだ未亡人であることを思い出させる。優しく家庭的、結婚も妊娠もできる愛人の影が見えるとニコライの紳士な態度に首をかしげてしまう。

夫が彼女との第一子を見せた日の忌まわしい記憶がまだ胸に刺さっている。テオドール。痛いほど恥じているが、夫に跡取りを与えていればこんなことにならなかったと思わせてしまうほどには無神経だった。当時の彼女は優しすぎた。次男のニコラスは新しい乳母の腕に抱かれているところを彼女がその目にしかと焼き付けるように仕向けられた。あの男の子たちの本質を悟ったのはその時だ。サルチコバ血統の幻想、女性への攻撃。幸いなことに、夫は三人目を産む前に亡くなった。ニコライは違うと思っていた。今は燃えるような現実が待っている。ニコライは他の男とは別物だ。彼は甘い言葉と 「ずっと永遠に」という言葉で弱みを握る。しかし、恥を抱えて死ぬという謙虚さを見いだせなかったところが彼の犯した最悪の罪かもしれない。

聖歌隊が一斉に叫び声を上げ、目を閉じる。耳を塞いで騒音から逃れるが、疼きは消えない。叫び声はますます大きくなり、肌は寒さでひび割れそうだ。目を固く閉じると突然、彼の目が自分を吸い込んでしまうことが再び頭によぎる。そして彼女は腕を振り下ろし、衝撃が腕の中で跳ね返るのを感じる。ドスン、ドスン。何度も何度も彼の上へと腕を振り下ろす。力で骨が砕け散るような感覚。ドスン、ドスン。胸の重みが消え、冷たい風が肌を覆う、馴染んだ生温かい液体を冷やそうとする。怒りは収まったが、首の後ろで煮えたぎり続けている。歌声が止む。

ようやく目を開けることができる。雪、大きくて重い一掴みほどの氷が肌に降りかかる。氷は皮膚に張り付き、筋肉を裂きそうなほどだ。暗闇はまだ、彼女を包んでいる。絶望的で痛々しい嗚咽が静寂を破る。そして、名前。彼女の名前。「ダリヤ・ニコラエヴナ・サルチコバ。」温かみが足を残して体中に燃え上がる感覚の無くなった足先に広がるどろどろになった白い粉雪に目をやる。もう冬になったのか?違う。3年が経った。長く、孤独で、みじめで、いらだちを積もらせる年月。

「お願いです」

邪魔が入った。後ろに農奴が立っていて、薄いショールを肩にかけようと風と格闘している。周囲に吹き荒れる嵐に対してあまりに軽装で、慌てた様子だ。急いでいる。その表情は絶望的で、懇願しているようで、嗚咽の方向に視線を向けている。それに呼応し、煮えたぎるような怒りが首の後ろで再燃している。

少女が地面にひざまずき、雪の中に顔を押し付けている。体は鈍く痛ましい叫び声をあげるたびに揺れ動く。ボロボロのショール以外は裸で、風はショールをはぎ取ろうと必死になっているようだ。少女はゆっくりと顔を上げる。顔の切り傷やかすり傷に雪が付着し、固まっている。片方の目は腫れて塞がり、深い傷でもう一方は痛みで開けられない。それでも涙で漏れている。口はひどく傷つき、必死に伝えようとするが言葉にならない。顎が折れて、耳からだらりと垂れ下がっている。これで醜悪な噂は消えるだろう。

ダリヤは冷たい木の杖を手に感じる。また、あれだ。冷めることを拒むあの生温かい液体が、木目に沿って流れる。裸足の下の雪に小さな血溜まりをつくる。

「お前のせいだろう」 吐き捨てるように言い、腹の中に馴染みのある熱が沸き起こる。自分の裸の体に風と雪が当たるのを感じ、強風が襲う中膝の震えは止まらない。ダリヤの憤りはさらに高まる。

少女は大きく息を吸う。

「どうし?!」不安定な顎で質問のようなものを絞り出す。

なぜだと?どこまで無礼なんだ!ダリヤは農奴の宿舎で流れる噂の事は気付いている。短気で、要求も理不尽で、嫉妬も計り知れないだと農奴が貴族の見ていないところで噂を流す権利があるとでも思っているのか?農奴共が自分を指差し、嘲笑う。終わらせないと。恋愛や新生児を見せびらかしやがって。それにも終止符を打ってやる。すべての噂、ささやき、青春の思い出、愛の思い出に罰則を与えないと。何の権利もない農奴のくせに。

顎が火照る。抑えきれない怒りが歯を越え、毒のように唇から流れ落ちる。顎から皮膚を剥がし、冷たい水ぶくれになった足元の雪を溶かしながらシューシューと音を立てる。口の端から再び蜘蛛が這い出てくる。杖を強く握りしめ、木の破片が手のひらに刺さりそうになっている間、蜘蛛は再び持ち場へと戻る。そして、肩から振り下ろされた腕に再び振動が伝わる。

耳鳴りと怒りが、再び視界をゆっくりと奪っていく。ドスン。ドスン。その衝撃のたびに自分の名前が聞こえて、燃えるような怒りが募るばかり。次はもう一人の小娘を始末する。ドスン、ドス。音は次第に鈍くなり、暗闇が耳で鳴り響いているように感じられる。ドス、ドス。

そして闇が彼女を包み込む。ダリヤに残されたものは闇だけだ。自分は有罪判決など下るはずがないと確信していたエカテリーナ大帝の戴冠式の後では特にあの女は夫へのクーデターを起こした。その傲慢への報いはイヴァノフスキー修道院での闇に囲まれた投獄生活である。瞼の裏を這いずり回り、タールのように眼球を覆う闇。それは記憶を陰鬱な灰色に染め上げる。雪の中の少女。落とし子たち。ニコライ。その家庭的な愛人。闇はゆっくりとすべてを飲み込んでいく。その中で寄り添ってくれるのは讃美歌だけだ。悲痛な天使の叫び声ではなく、本物の、祝福された賛美歌。遠いのはいつもの事。まるで神自身がダリヤを駆り立てているかのように。手首を焼くような氷の鎖でその身を引き寄せ、石の廊下を歩かせる。だがしかし神はダリヤを引き留める。ダリヤを目が届くところに置き、決して神の神殿に足を踏み入れることを許さない。

ああ、しかしダリヤは神からの答えを必要としている。欲している。彼女は敬虔で慈善家、ミサにも参加する。今となっては人道に対する罪で修道院の地下に投獄され、神がダリヤの存在に気づいたら、ダリヤから離れてしまう。神は子供を産む力を与えてくれなかった。自分の血の入っていない息子を育てることを強要した。一人で暮らすことを強要し、触れることのできない青春と愛のすべてを、毎日屋根の下に並べた。我慢の限界に達したとき、不満を爆発させたとき、救いを求めたとき、ダリヤは檻に入れられた。これが女の定めなのだろうか。幸せへの道を閉ざされることだろうか。幸福を求めるあまり、悪者にされることだろうか。幸せを見つけても罰せられることだろうか。

ダリヤはついに絶望に屈する。顎を伝って骨まで浸み込む毒、手首や足首の氷の枷に食い込んでいる器具の周りを蜘蛛が這う。暗くて何もないところから長く籠ったうめき声が漏れる。絶望的で、無慈悲で、痛々しい。

冷たい石が脛や腿、腕の皮膚に傷をつける。自分の叫び声を止めることができず、目の前の地面に膝をつき、顔をうずめる。声は重く湿り、宙に搔き消えていく。裸の体がそっとかけられた毛布を感じることはほとんどない。泣き止むと長い間を置いて、恩人が口を開く。

「長い旅でしたね、ダリヤ・ニコラエヴナ」

ダリヤはゆっくりと、弱々しく、毛布を肩にかけ、その声から離れるように向きを変える。手錠はなくなり、手首は焼け付くような冷たさから解放され、汚れは一つもない。手錠なんて最初から無かったのか。眩しい光の中で目を瞬かせるが、周囲のものは何も見えない。息を呑む音と急ぐ足音が遠のいていき、やがて照明が暗くなる。目が慣れると、恩人が傍に戻ってくるのが見える。年老いた男だ。ゆったりとした服に厚い革のエプロンからのぞくわずかな皮膚は、黒い皮が細い枝に巻きついているトロイツコエの木を彷彿とさせる。背筋が曲がっていなければ、男は背が高いかもしれない。彼は影のように近寄り、その存在感で彼女の意識を引き付ける。ニコライがよくやるような仕草だが、同じではない。全然違う。

「すみませんね。これで少しは良くなりました?」 彼は片手で、薄く透けるような白髪の後退した生え際を掻く。もう片方の手はしっかりと背中に回している。「英語を勉強しましたか?私はロシア語をほとんど話せませんし、あなたがドイツ語を話すとは思えないのです」

長年培われた技術を使う準備をしているかのように、ダリヤは話す前にしばらく静止する。「勉強はした」 口の動きを試す。「話せない」自分の顎に指を触れ、それがまだ燃えていることに驚いている。指を離すと、周りの液体を凝固させ黄色の小さい粒へと褪せた血液が目に入る。恩人は心配そうに声をあげる。

「あ!それはまだ触らない方が良いと思いますよ、可愛らしい蜘蛛たちの仕事を邪魔してはいけませんね」

喉の奥から舌を伝って歯の間までピリピリとした感覚が広がり、吐きそうになる。下唇がたくさんの小さな足にくすぐられているような感覚を顎で捕まえ、目の前に持ってきて確認する。親指の爪ほどの大きさの小さな黒い蜘蛛が、どろどろの臓物を脚につけている。蜘蛛は本物だった。毒も本物だ。彼女の脳は感じるべき感情、起こすべき反応を判断できない。悲鳴をあげるべきか、いや、嗚咽するべきか。疲れ果てて、何もせず、ただただ困惑の表情で恩人を見つめる他ない。

「興味深いでしょう?」彼は話し続ける。「マリスがねぇ

「マリス?」

「マリス」彼は蛇の鳴き声のように音節の最後を特有なアクセントで太く粗く響かせながら、背中に隠していた手を見せる。その指の間に宝石のようにしっかりと握られているのは、手のひら程の赤い立方体だ。しかしその表面に触れる光と影が反射する様子は、それが立方体であるかどうかさえも疑わせる。その恐ろしい物体が何であれ、胸を何かが圧迫してくるような不快感を与える。

男は続ける。「マリスにはまだ分からないことがたくさんありますが、その潜在能力は天文学的です。あなたの今の状態もその証拠ですね人類史の節目での再誕。ベルサイユ条約。大戦の終焉ですよ!」

「数か月ほど前の事だ、ドクター。戦いが終わったわけじゃないだろう」

ダリヤは、傍に静かに現れたもう一人の男にようやく気づいた。男は頭皮近くまで髪を刈り込んだ彫刻のようだ。石に刻まれたようなしかめ面を顔に張り付けている。彼から小さな四角い鏡を受け取った時、驚きで声を上げそうになるがその前に止めることができた。平静を保つように気を張るいや、これはきっと何かの間違いだ。自分は老婆で、最後の日々を刑務所の独房で惨めさと孤独の中で過ごしていたはず。しかし鏡に映る女は若い。それでも、鏡から覗いている顔の状態には見覚えがない。牢屋に閉じ込められていた時代の顔なのだろうか、だが紛れもなく自分の顔だとわかる。

「もっと若くできなかったのか?」と彼女は言うと恩人は高い笑い声を漏らす。彫刻男は微動だにしない。何がそんなに面白いのか彼女には分からない。

「私の理解している範囲から説明しますと、マリスは人生の最も暗い瞬間にしがみつくものだそうで 恩人は片方の目を指でなぞり、涙を拭うふりをした。「その様子から察するに真に絶望に陥るまでにいくらか時間がかかったのでしょう。これがあなたの心の中にあった希望が、ついに死んでしまった瞬間ですね。しかし幸いなことに、マリスがあなたのために選んだのは実にすばらしいでしょう」

彼の熱意に彼女は目を細める。口説こうとしているのか?肩を上げ、顎を引いて不快感を隠せない彼女の心を恩人は見透かす。やれやれと彼が首を振ると、ダリヤはすぐに気がつく。突然の安堵感と信じられないという気持ちを無視して、黒い臓物にまみれている手のひらをかざす。「蜘蛛のことか?」

「毒もですよ」 彼はエプロンのポケットからハンカチを取り出して差し出す。それを受け取るが、警戒のあまり、汚れを拭き取る間にどちらの男性からも目を離すことはできない。「そうでしょう、そうでしょう。本当に素晴らしいものですよ。テストをいくつかとレントゲン撮影が必要ですがあなたの中にある計り知れない数の蜘蛛を生み出すことができるそうです。この蜘蛛は驚異的な速さであなたの体を保護し、治癒させます。毒についてはもうお分かりの事でしょう!!あなたは糸を吐く美しいヤマシログモのように、何兆もの可愛い赤子を秘めているのです!」

ダリヤは上唇をゆがめる嘲笑を止めることができない。それに気づいた恩人は話題の変更を決める。

「あぁ!そうですね、紹介が遅れました。失礼しました。私はフランツ・オーゲン博士です。英語でいう『臓物』、つまり『オーガン』と少し似ていて面白いでしょう?」 彼は手のひらを胸に当てる。「そしてこちらは仲間のサリエルです」 そう言うと彫刻男を指差す。「あなたの脳には今、きっと質問の嵐が吹き荒れているはずでしょうねおや、寒いですか?」

片手に握られた小さな四角いハンカチと裸の肩に掛けた毛布の周りに寒さが忍び寄る。そこで博士は立ち上がり、最初はダリヤの手を引こうとするが、彼女がそれに応じないと、そっと腕を自分の背中へ回す。片手はまだ立方体を握ったままだ。博士は長い脚で歩き、ダリヤは慎重に数歩後ろを付いて行く。彼女は無言で歩き、医者の攻撃的な話から一時の休息を得ている。冷え切ったレンガ造りの廊下を見ていると、自分が以前の刑務所から別の刑務所に移動されただけではないかという疑念が深まってくる。床は滑りやすいセメントで、長年の使用で擦り傷だらけだ。暗い廊下には大きくて重いスチール製のドアが並び、高い壁にある大きな光の球が時折ちらちらと照らしている。

自分が迷路の奥深くに入っていくのか、それとも彼が迷路の中心から遠ざけているのか、わからなくなったとき

「着きました」

博士は開いた鉄の扉の片側に立ち止まり、その場で彼女に向き合う指はまだ背中で恐ろしいキューブを握ったままの、ニヤついたガーゴイル。ダリヤは彼の表情を読もうとしたが諦め、警戒しながら新しい部屋に入っていく。彼女の部屋。窓も装飾もない正方形の部屋は、奥の壁に押し付けられた大きなベッドと、その四隅の柱に天蓋のようにかけられた重く暗いカーテンがなければ、空っぽ同然だ。その両脇にはさらに二つの光源と二つの大きな本棚があり、どちらも文学や他のあらゆるもので溢れかえり、不安定な本の山がその麓にそびえ立っている。片側の壁に立てかけられた机のほうに彼女はゆっくりと移動する。机の上には数枚の紙が置かれ、筆記用具らしきもので押さえつけられている。退屈そうに指で木目をなぞっていると、積もった埃の層にきれいな指跡が残る。

「ああ、はい、まあ」 博士は彼女の落胆を予感して言葉を詰まらせ、部屋の中にじりじりと入っていく。「この部屋はあなたが来るだろうと思い、少し前に用意されたものです。しかしご存じの通り、人生において計画通りに事が運ぶことはなかなか無いですよね」

ダリヤは親指と人差し指で埃を転がすが、彼の存在が影のように部屋全体を埋め尽くすのが感じられる。博士の先には、出入り口を塞ぐ彫刻男がいる。警戒する蜘蛛が舌をくすぐる。彼女は積み上がった本へと移動し、上から覗き込む。特にある本の表紙の英字が最初に目に入ったとき、信頼できずに立ち止まる。英語の読解に苦労したことを思い出すと、軽い恥ずかしさがこみ上げる。いつだって話す方が得意だった。ダリヤは身を乗り出して、その本の題名を知ろうとゆっくりと自分の顔へと持ち上げる。受け入れていないのに博士の存在が急に近くなったのを感じる。

「お目が高いですな。『戦争と平和』作者はレオ

「トルストイ」ダリヤは本を見つめたまま博士の言葉を遮る。「トルストイには詳しいんだ」

「そうなんですか!それはそれは!」不気味なほど不信感を滲ませながら博士は拳をかわすように後ずさりする。そのひどい演技に気づかないふりをしていると、ダリヤはもしかしてこの本は単なる偶然でここに置かれたのではないことに気づく。「特に、あなたが亡くなった後の出来事を記録しているので、スリリングな読み物になるのではないかと思いまして。エカテリーナ大帝が宮殿内でフランス語しか話さないことにこだわっていたことはご存知ですか?いや、愚問でしたね。それでも、貴族たちはロシア語を勉強しなければならなかったようですその、まぁ

ダリヤが本を地面に落とすことで興味がないことを暗に伝えると、博士の言葉が先細りになる。舌を鳴らすと歯茎に張り付いた蜘蛛が喉の奥へと戻り、腹の中には懐かしい温もりが広がる。エカテリーナ大帝。今、彼女はそう呼ばれているのか。博士がわざと不快な話題を提供しているのは分かっている。吃音、ぎこちない間、「はぁ、まぁ」の数々にもかかわらず、彼の唇が笑みを描くことは一度もない。しかし、新しく、間違いなく痛い箇所を突く話題を考え出すと、その唇は何度も円を描いて変形する。彼は閃くと、突然「あ、そうですね!」と言いながら本棚をかき分け始め、新しい本を誇らしげに彼女へと突き出す。見慣れたキリル文字で書かれた派手な表紙ロシア詩集。ダリヤは怪訝に思い眉をひそめる。自分は詩の愛好家ではない。しかし、博士は「少々お待ちを」と言わんばかりに無言で指を立て猛烈な勢いでページをめくり、手を止める。そしてある詩のページを開いて、再び本を手渡す。

ダリヤを馬鹿だと思っているのだろうか?反抗するように彼の目を見つめるが、熱は湧き続け、歯の裏の蜘蛛は恐る恐る戻ってくる。彼は少し前にロシア語は話せないと言っていたのに、どうしてこのページを見つけることができたんだろうか。もしかすると彼は自分の逆で、話すより読む方が得意なのだろうか?いや、博士は弱いけれども、要領の悪いところを見せることで知性を隠そうとしている。なぜこの本を見せる必要があるのか?

その本に目をやり、冒頭から読み始める。フョードルが書いた詩だ。「Молчание」というタイトルが目に飛び込んでくる。胸がむかつく。ダリヤは本能的に毛布を肩から下ろし、ハンカチを口元にあてる。

「チュチェフ、そうですね! あなたは非常に複雑な社交網を作っていましたね。まるで蜘蛛の巣みたいにあ、すみません、ダジャレのつもりはありませんよ」彼の言葉はくぐもり、ダリヤの視界はぼやけ、怒りが再びそれを奪い去ろうとする。「数多くの作品を生み出した詩人古い知り合い覚えてますか?」 すべては偶然の一致などではない。こうなることを知りながら、好奇心に負けた。目は何も写さず、胃が焼け、喉が焼け、口が焼け、次に来る言葉を知っているが、口にしないよう彼に懇願する。「ニコライ・チュチェフ」

腹の底から湧き上がり、毛穴から滲み出る怒り。博士のあまりにも露骨な感情操作に耐え切れず、蜘蛛が暴れ出す。震える体を温めながら這ってくるのを感じ、やがて床に広がっていく。彼女は彫刻男が博士を無情に部屋から引きずり出す前に、蜘蛛の目を借りて博士が腰を抜かして飛び出していくのを見た。蜘蛛でドアを閉め、厚い蜘蛛の巣で何層にも覆っている。「あなたは糸を吐く美しいヤマシログモのように、何兆もの可愛い赤子を秘めているのです!」前に言われた言葉に胸を締め付けられながらも、口内の新しい筋肉を絞り、光の球体に向かって毒を吐き出し、部屋を心地よい暗闇で覆う。子を自由に歩き回れるようにしよう。口からあふれ出てくる蜘蛛はありとあらゆる表面に伸縮性のある網状の毛布を広げる。ゆっくりと怒りが不満へと収まるまで、そこで感情を煮詰める。

何の意味もないドアのノックも、時折漂う温かい食事の匂いも、通り過ぎる日々を感じさせる。ダリヤはそのすべてを無視して夢の中に逃げ込もうとするが、それも時に見たものと同じ幻を映し出すだけである。ダリヤの体に押しつけられるニコライの体、素肌に感じる温もりを、肌を這う彼の舌。彼が体を押さえつけると目が開き、そこには再び少女の姿が雪の中うつ伏せに倒れたボロボロの死体。幻を振り払い、ニコライの病的に甘美な幻が戻るよう招く。彼の手が体を探り、背中を伝い、尻を掴む。彼の指腹をなぞり、臍の下、さらに下へ。そして、拳を腹へ突き刺す痛み。

その一撃でダリヤは後方に投げ出され、氷のような冷たさを背中に感じる。彼の手があった場所には穴が開き、彼女は何とかその穴を塞ごうとする。恥ずかしくて、寂しくて、指の周りから血が流れ落ちる。何かが足りない。腹に爪を立て、皮膚を引き裂き探し始めるが目当てのものが無い場所からさらに血が流れるだけだ。返せ。絶望するが、ニコライはもういない。空虚。孤独。

そしてダリヤは死ぬ。死んで、死んで、死に続ける。内側から身体を溶かすように腸内の毒がこみ上げ、口から止めどなく流れ出す。火傷と骨から剥がれた肉の鼻が曲がるような臭いを歓迎する。心臓は動きを止めようとするが、蜘蛛はそれを許さない。蜘蛛は巣を捨てて彼女の元へ這い戻る。ダリヤの体を癒すためうねるような薄暗い色の蜘蛛の層で体を覆う。悲鳴を上げて止めろと叫ぶが蜘蛛は麻痺した体を黙々と治癒し続ける。

部屋の中で音がして、ダリヤの怯えた目がドアの方に引き寄せられる。開いたドアから光が漏れ、彫刻男の影がこちらに向かってくる。男は一体何を見ているんだ?形のない蜘蛛の群れ?絶望で体が動かない。冷静を取り戻すことも、蜘蛛を払いのけることも、髪を整えることもできない。代わりにダリヤはただ座って蜘蛛が役目を終えるのを完全に無力なまま見つめる。蜘蛛は少しずつ口の中へと戻って行き、一糸纏わないまま、あの光とその陰気な影に晒される。しかしついにその影が動き出し、博士が入ることのできる隙間が開く。彼の存在はなぜか前よりも小さく見える。彫刻男のせい?いや、何か別のものだ。彼が部屋に入ってくるのを見ながら、用心している。二度と博士に主導権を握らせてはいけない。

「もうどうだっていい。 何十年も前からそう 彼女が先手を打って彼の注意を引き、優位に立つ。「ロシアは私を見捨てた、もうどうでもいい。神は私からすべてを奪った、どうでもいい。夫のことも、私に押し付けた私生児もどうでもいい。私に何もくれないこの体もどうでもいい」彼女は、自分の指がまだ夢の中のように腹に穴を開けていることに気づく。タールのように濃い血が指の周りに溜まり、傷口から流れ出る。そこに巣食う惨めさの海を吐き出そうとするが、口の端から蜘蛛が流れ出てくる。博士は少しずつダリヤの方へと歩み寄る。

「ここにいる理由は何?」

博士の靴が網目状の床を引き剥がすと水音を立てる。そして少し離れたところで片膝をついて、べたべたする地面を手でなぞる。その仕草から慈愛の片鱗を感じるが、鵜呑みにしてはいけないのも承知の上だ。彼が自身の指を観察する様子を見て、全てのピースがはまった感覚に陥る。彼が「可愛い」蜘蛛について話す様子、顎の毒を拭うハンカチ。本も、詩も、マリスも。今、部屋の中身に注がれる彼の視線、そしてドアの彫刻男存在。博士は商品であるダリヤを観察し、その価値を計算しているのだ。これは思いやりにあふれる瞬間ではないこれは交渉だ。

「望みは何?」ダリヤは質問を変える。

まるで心の中をすでに理解しているかのような眼差しが彼女に注がれる。その狐のような笑みで博士の口角が耳まで引き上げられる。「私は協力関係を提案したいのです。あなた自身とあなたの策略を提供していただきたいのです」

「この身を差し出す事なんてできない」 博士の表情は変わらないが、彼女は続ける。「この力を誰かに使わせたいと思わせるものなどこの世には存在しない」 彼女は両手を腹に当てると、その間を蜘蛛が飛び交い、急いで傷を回復させ穴を縫いとめる。唇を歪めて、諦めたような苦笑を隠せない。ようやく、博士の笑顔がはじめて思惑にかき消される。しかしその時、新たな気づきを得る。彼の顔は歪み、かつてないほどゆがんだ笑みと化す。

「そうは言っても、既に望むものを受け取っているじゃあありませんか」博士はまた心を読んでいるようだ。空いた手をダリヤへと伸ばし、蜘蛛が逃げ去った後に残された彼女の指の方を指す。体が再び元通りになっている。でも、どうやって?ダメだ。その理解は胸で心臓を動かす。彼女はそれを封印して希望を持とうともしない。しかし、それなしには、ダリヤには何もない。博士は彼女を檻に入れることだってできる

もし本当に彼女に長い間拒んでいた物を彼が送ったのなら、その代償にダリヤは一体何をさせられるのだろうか?

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1920616

ピンクの夕陽が壁面を照らしていても、サルチコバの館は影に覆われたままだ。赤い煉瓦がここから去る口実を考えているかのように、居心地悪く揺らいでいる。建物は背が高く細い窓が並び、交差した短い長方体の集合体だ。長方体には威厳のある黒い屋根が重なっている。玄関は建物の東側にある深く暗い色の木材に豪華な錬鉄の装飾が施された大きな二重扉。

一階の窓の全てから薄明かりが漏れ、敷地内に立ち込めるスープのような霧に滲み出ている。顔を隠したドライバーの一団が乗り入れ道路のセンターピースの横で明かりの中で集まり、寒さで赤くなった鼻の暖かい蒸気を立ち昇らせる。センターピースからは背を向けている噴水の中心から鋭いアーチを描いて暗い水滴が噴き出し、まるで八本の頑丈な脚のように見える。誰もそれに視線を向けようとしない。

「ご来場いただいた皆様に改めてお礼申し上げます」 建物の大きな扉がきしみながら開くと、ダリヤ・サルチコバの声が聞こえてくる。ドライバーたちはそれぞれ車に乗り込む。背が高く優しげな執事が大きな扉の一つを内側に留めると、その横を薄手の黒いガウンを着た館主のダリヤが寒さをものともせず出てくる。好事家や芸術家の卵などに別れを告げると握手やハグに応じる人もいるが、皆、満面の笑みを浮かべている。

淡い色のスーツを着た大柄な紳士がふらふらと通りかかり、落ち着きのある執事に軽く頷き、下に並ぶ車へと続く石段を上っていく。彼は立ち止まりマッチに火をつけ、唇に挟んだ太い葉巻の先端に当てる。男は葉巻を深く吸ってから唇から煙を舞い上がらせ、しなやかな手首で大げさに葉巻を振り回す。

「いやぁ、全く、今回も素敵な夜だったぜ、ミス・サルチコバ」アメリカ訛りが強い。テンガロンハットを斜めに被っているところから、出身はテキサスかもしれない。ダリヤはまだアメリカの方言に慣れていない。彼は彼女の方へとくるりと体を向ける。「帰ってからすぐに計理士と話をつけるからよ、またすぐ連絡するぜ!」

大きく笑って葉巻を吸い、灰を地面に落とすと、ダリヤは愛想良く頷く。彼は階段の方へ振り返ったときに足を置く位置が狂ってしまい最初の2段を滑り落ちてしまったが、幸いにもバランスを保つことができた。咳払いをして誤魔化す。ダリヤは何事もなかったかのように振舞う。

「トロイツコエでの残りの滞在をお楽しみください」ダリヤは、残りの階段を勇ましく歩む彼に呼びかける。無事に降りるのを見届けようとしたが氷のように冷たい手で手を掴まれ、何事かと視線を向ける。ミスター・ピーコック、恥ずかしそうに謙遜した笑みを浮かべている。片方の腕で随分と酔ったミセス・ピーコックを抱え上げている。あの女は魔女の手を持つ罪人だ。両手で夫を掴み、少しでも力を抜くとその場に崩れ落ちてしまいそうだ。ミセス・ピーコックはその場でふらつき、話すときに前かがみになる。

「ミスター・ウェブは車を待つ列に並んでないんですね!」古くなったワインとタバコの香りが漂う。肩にかけたキツネの毛皮が唇につくと、彼女は「プッ、プッ、プッ」と言いながら立ち止まる。「そういえば、ウェブさんを見たのはずいぶん前の事だわさっきまでミス・ダリヤとあんなに熱心に話してたのに大丈夫かしら

「今日のミスター・ウェブは少し騒ぎすぎたようですね」ダリヤの表情は暖かい。「気分が落ち着くまで客室をお貸ししています。」 ダリヤはミセス・ピーコックの手を握り、引き離そうとするが、夫人はさらに強く握る。かなり太った体を夫に押しつけ、ティール色のフロックの紐が肩からだらりと落ちる。

「まぁ!客室だってぇ!ねぇ、貴方」夫人はしゃっくりをし、夫に視線を送る。彼女は両目で彼にウインクしているように見える。「私たちもいつか泊まりましょうよ!サルチコバの屋敷に泊まると『元気』になるって聞きましたよ~」彼女は夫の腕の中に転がり、濡れた唇を見せながら首をかしげる。「ねぇ~」

すっかり呆れ果てたミスター・ピーコックは、妻を階段に引きずり出そうとする。しかし今度はダリヤが離さない。

「高い評価をいただき、大変うれしく思います」彼女は歯を見せて笑う。「ご安心ください。明日の朝、ミスター・ウェブの感想を忘れずに聞いておきます」

余計なお世話だ。彼女は空笑いでその言葉を締めくくると、ミスター・ピーコックは心配そうに目を丸くしたが、その夫人は心底楽しそうに、そして気づかないように笑い返す。ダリヤはそれを受け入れ、酔った勢いで敵意を消し去るような仕草で夫人が夫の腕の中によろめきながら戻ってくるのを許す。

「約束ですよ~」 夫人はからかうようにダリヤの方に指を振り、階段に向かう。ミスター・ピーコックは目に見えてほっとしているようだ。「私たちの旅は、キューピッドが直々に見守ってくれるはずだわ!」

より礼儀をわきまえた最後の常連客とそのドライバーは、一人を除いて全員がいなくなるまで道を下る。残された一人は肩を下ろして両手をポケットに深く突っ込んだまま静かにダリヤの方へ階段を上っていく。彼は数歩手前で立ち止まり、彼女を見上げる。ダリヤは玄関口から視線を返し、それから二人はそれぞれ背を向ける。彼女は邸宅の奥へと向かい、彼は自分の車へと向かう。

ダリヤが落ち着くと、まるで建物全体がため息をついたかのようになる。華やかなやお祭り騒ぎが終わり、廊下は静寂に包まれる。ゲストたちがもっと周囲に気を配っていたら、小さな足が屋根の下を歩く音に気づいたかもしれない。石造りの間に張り巡らされた巣を見つけたかもしれない。ダリヤが信じていることがあるとすれば、それは、楽しい時間を過ごすためには危険を顧みない金持ちの性質だ。

ドアを閉め忘れた執事はダリヤが前を通り過ぎると、その場で立ち止まり、彼女の後ろを歩き始める。廊下を進み、ダイニングホールを過ぎ、ゲストルームへと向かう。廊下の壁をいくつかの燭台が砂時計型に弱々しく照らし、部屋の中央を覆う円錐形の大きな闇を作り出している。廊下は影に包まれ、ミスター・ウェッブが襲いかかるとき、自分がきちんと隠れていると確信できるほどの暗さだ。ダリヤは驚いたフリで声をあげる。

ふざけながらウェブはダリヤを自分の方に向かせ、その腰に腕を回す。しかし彼女はそっと彼の胸に手を当て、彼との距離を保つ。

「残って仕事の話をしたいのでは?」 彼女の頬は目尻を引き上げ狐のような笑みを浮かべている。「それとも、それは見送って、もっと楽しいことに集中したいでしょうか?」

「まぁ、まぁ、ミス・サルチコバ」 ミスター・ウェブの声は低く、唸るようだ。彼はイギリスのどこかの敏腕セールスマンで、彼女のクライアントが興味を持っている人脈を偶然にも持っていた。「僕にとってのビジネスとは、それ自体が喜びの形なのです」

その笑い声は砂利のように粗く、黒い瞳は自信に満ちて彼女を見つめる。おそらく自分のことをプレイボーイだと思っているのだろう。彼女を腕から解放し、肘を差し出す。ダリヤはそれに応じ、彼をゆっくりとホールに導く。行き先は重要ではない。気分が良くなったのにもかかわらず、彼が頬の内側に舌をこすりつけて、軽い苛立ちを飲み込もうとしているのに気が付く。彼は首を横に振って振り返り、二人の背後で歩調を合わせ続ける執事に視線を向ける。

「そろそろ休ませてあげては?」彼は問いかける。

執事は何も言わない。二人はスローモーションのように動き、片方の腕は脇で振り子のように揺れ、もう片方は背中に九十度の角度で納まっている。ダークブラウンの瞳が二人をじっと見つめている。

「執事には客室まで同行します」後ろを向いたままホールを歩くウェブを軽く引っ張りながらダリヤは答える。歩いている間、二人から遠ざかる廊下や、左右で妙に距離のある最後の扉に彼は気にも留めない。

「なぜ?」 彼は尋ねる。「私たちに案内役なんて要らないでしょう

「護衛のためです」

「護衛?」彼は憤慨したような嘲笑を浮かべながら、首を後ろへ捻る。「僕のことを信用していないとでも?」

「ミスター・ウェブ、危険な業界に身を置く独身の女性が予防策を講じることに、そんなに驚かれることはないでしょう」

苛立ったような笑い声が再び聞こえる。彼は考え込むように唇をすぼめる。

「予防策だからこそ

「ミスター・ウェブの人脈についてもっと知りたいのです」ダリヤが彼の言葉を遮るとウェブの機嫌はすぐに治る。背筋を伸ばし、自由な方の手でブロンドの髪をなでてズボンのポケットに入れる。

「ビッカースのことですか?まだ調べていないことがありますが、どうしてヘルハウンダーズがそんなに執着するのか不思議でなりません。今まで扱っていたのは諜報と財政なのに、突然兵器に興味を持った理由はどうしてでしょう?」

彼女はため息をこらえる。「護衛のためです」

ウェブは首を天井に向け、その口を少し開いて悟ったような表情を浮かべる。危険な業界なんだ、彼女自身がそう言っていた。ダリヤは黙って廊下の先を見続け、求婚者になりたがっている彼が頭の体操を終えるのを待つ。

「ラッキーなことに、僕は上層部とかなり親しくなっています。いやいや、そんなふうに私を見ないでくださいよ」 ダリヤは片眉を上げ、彼から顔を背けている。「正直な話!あなたの約束が本当なら、ヘルハウンダーズが次の大戦で負けることがないよう装備を充実させることができるんです。その次の大戦だって

「感激です」 囁きながら彼の腕に寄りかかり、可憐な手を彼の胸に押し付ける。

「まあ、完全にあなたのためとは言い切れませんね、ミス・サルチコバ。僕は自分を次のバジル・ザハロフだと考えています。彼がギャンブルと石油に夢中になっている間に、早く人脈を張り巡らさなければ」彼の顔の片側には悪戯っぽい笑みが浮かび、目は彼女のガウンの低いネックラインを見下ろし、横切っていく。胸が彼に押しつけられて、谷間が深くなるのをじっと見ている。「あのおっさんは、すべての、その、人たちに恩を売って地位を築きましたからね……

「確かにミスター・ザハロフはその恩人の敵に欠陥兵器を売っていたそうですね。あなたの中では私のクライアントと私は正しい人々だと、どうして分かるのでしょう?」

ウェブは彼女の腕から自分の腕を戻して、ダリヤの腰を掴み、動きを止めるように強く握る。すべてが静止する。「それはあなたがどれだけ約束を守れるかにかかってるんです」 彼女に向かって身を乗り出す。彼女は与えることなく、キスを奪われる。それも強引で、まるで情熱的にしようとするが支配欲が一番強く伝わってくる。彼は自分が主導権を握っていると思っているが、彼女は両手を彼の背骨に這わせて肩甲骨の間に平らに置く。唇を押しつけ、彼の舌を彼女の舌で弄び、逆らえないようにする。彼の指は肩と背中をかき分け柔らかな肌を堪能しようと必死になり、邪魔なドレスのストラップへの苛立ちが伝わる。

彼は一瞬、動きを止める。ためらっている。彼は頭を引いて彼女を見つめ、表情を探る。眉をひそめ、深く暗い瞳で注意深く彼女を観察する。「私の奉仕は確かに受諾されたと思って良いのでしょうか?」

「ほとんどはね」からかうように囁く。ダリヤは本気だ。全て終わった後、望むものをすべて与えてくれる。彼に向かって微笑む姿を見るとそんな思いが過ぎる。そしてその思いは彼を支配する。

ウェブは彼女をドアに押しつけ、全身を彼女に押し付ける。彼女は彼の高ぶりと、彼女を求める硬さを感じる。彼の手がドレスのストラップを下げ、唇と舌が彼女の首と肩を探れるように隙間を。彼女はため息をつき、片手が彼の乱れた髪を掴むと、もう片方の手で背中のシャツを引っ張る。

後ろのドアが開く。

身体はまだ絡み合ったまま、彼を中へと導く。その狂おしいまでに高まった鼓動、性器に集まる血液のすべてを感じることができる。靴が床にわずかに貼り付くことへの困惑を表す表情の強張りや彼の恐怖心感じ取る。しかし、彼はそれを無視し、肩の力を抜いて、蝶ネクタイに手をかけ始める。彼女はシャツのボタンを外していく。

彼は電気をつけるように頼み、彼女は再び彼の口を自分の唇塞ぐ。ダリヤを視界に収めようとして電気のスイッチを背後で探る。彼の指が壁に触れるのを感じる。弾かれるような不快な感覚を覚え、彼が壁から指を話す。時間切れだ。彼は彼女の肩を掴んで距離を取ろうとするが、彼女はそれを押しとどめ、顎を彼の首筋に押しつける。小さな毛が柔らかい口の中をかすめる素晴らしい感覚、太くも繊細な脚が彼女の唇を押し開ける。彼女はわずかに噎せ返る。その生き物の前脚がウェブの首筋を捉え、大きな顎を肉に食い込ませる。

「な!」衝撃で言葉が途切れる。ダリヤは床にたたきつけられる。「灯りはどこだ?!」彼の足がすくむのを感じたが、彼の膝は固まり、直立したままだ。片手を首に当て傷口から膿の泡がにじんでいる。もう片方の手を狂ったように振り回している。「灯りだ、ちくしょう!」

彼女は黙ったまま立ち上がり、べたつく床を歩いて、ウェブが暗闇の中で明かりを求めて手を振り回しているところへと向かう。その動作は遅く、重くなる。呼吸は浅くなる。彼女は柔らかい指を彼の胴体に当てると、その感触にたじろぎ、それから体を硬直させ、徐々に動きを止める。彼のシャツのボタンを外し、肩から襟を引き離す。間近で見ると、彼の喉で音節が荒くなるのが分かる。「あか

もういいだろう。長い間視界に入れられることが無かった燭台が、ゆっくりと二人の周りで光り始める。彼女はきょろきょろと動く目に映る絶望を味わうことができる。彼は自分を取りまく環境、つまり部屋という概念を理解しようとする。燭台の光はそこら中を覆う分厚い蜘蛛の巣で歪んでいる。かつては壁であったと思われる巨大な石板がまるでその場所から押し出されたかのように、蜘蛛の巣の中に奇妙な角度でぶら下がっている。机、ベッド、カビの生えた寝椅子など、この部屋にあるものはすべて床に散乱し、網で覆われ、使われていない。天井は漏斗のように螺旋を描き、燭台の明かりが届かない暗闇へと続いている。彼の視線はそこに注がれ、その影がうごめく様子を見ている。

ダリヤは湿気を含んだ、くぐもったような咳をしながら口を大きく開ける。その舌から手のひら程の大きさをした蜘蛛を手の甲に導く。片方の腕をウェブの腰に巻きつけ、もう片方は指の間で蜘蛛を遊ばせている。彼女はため息をつく。

「とにかく、博士は喜ぶことでしょう」 蜘蛛を彼の曝け出された鎖骨の上に置き、こちらへと歩いてくる人影に目を向ける。廊下から彼女に合流したお堅い執事の影だ。執事は数歩先に立ち、背中を向けている。

ダリヤは部屋を横切って執事のところに行き、再びウェブの狂ったような鼓動を感じる。彼はきっとパーティーで4人目のゲストを見たのだろう。部屋の端にある背もたれが高い椅子の角に背中を曲げて横たわっている人物ウェブはその離れた距離から観察しようとその人物に意識を向けるが、その集中力は散り散りになる。彼の神経新しく現れた肩の間の焼けるような感覚に注意を向けるよう叫ぶ。ダリヤは彼に向かって指を鳴らす。こっちを見て。執事の上着を脱がせる。彼女は執事の蝶ネクタイを引っ張り、ボタンを外してシャツを肩から下ろし、ウェブの身に何が起きていることを見て分からせる。理解が彼の顔を駆け抜け、目が恐怖で震える。執事の肩甲骨の間、そこに毛むくじゃらの出っ張りが埋もれ、熱く怒った肉に包まれている。蒸し暑い空気が背骨に当たると、肉がピクリとわずかに震える。

「これで私とクライアントじゃなくなるでしょうそれでもこれはまだ我々が話し合った約束の一部であることを明確にしたいと思うのです」 彼女は執事の方に一歩踏み出し、その肩に肘を預ける。再び生き物の背骨をくすぐることに彼女は喜びを覚え、執事は震え上がる。その皮膚は伸び、わずかに青ざめ、背中の震える塊の周りが痛々しく押し出され、八本の毛深い脚が現れる。ダリヤが弄ぶのを止めるまで、ゆっくりと伸びてくる。そしてまるで考えを改めたかのように、また執事の皮膚の下に潜り込む。

「私が授ける不老不死は痛いかもしれませんが、効果的なんですよ」 ダリヤはくすくすと笑う。「私がほとんど80歳なんて信じられます?死んでいた年月を加えると200歳に近いかもしれません。大事な人脈を持っていることを考えると、調査を少しでもしていたら、少しは信じられたかもしれませんね」ダリヤはまるで自慢げにプレゼンをしているかのように、生き物の周りを人差し指でぐるりと囲む。

「私の子どもが、頸椎を通してあなたを支配しています」ダリヤは指を動かし、執事の背骨にある蜘蛛の尻から白い糸のようなものが繰り出されている様を見せる。「この物質があなたの全身を隅々まで巡り、あらゆる損傷や消耗を修復し、あなたの指令を確実に実行できるようにするためにこうするのが必要なのです。永遠は長い時間ですよ、ミスター・ウェブ。私の依頼人を決して裏切らないという確証の必要性をどうかご理解ください」

役割を果たしてダリヤは執事から離れて、執事が服を脱ぎ終わる。前かがみになって靴を脱ぎ、靴下を脱ぎ、ズボンのループからベルトを通す。

ダリヤはウェブのもとに戻り、彼のそばで体を丸め、背中に巣を作っている蜘蛛を確認する。両手でウェブの体をさすると、胸の筋肉がゆっくりと緩み始めるのを感じる。毒が抜けてきている。彼女は優しく見守りながら、彼の目の中で悟りの光が灯るのを見る。絹のような糸が動脈の中を冷水のように駆け巡る。きっと彼の脳内でシナプスが発火し、手を伸ばして彼女を攻撃するなり、とりあえず、どうにか抵抗するように命令を出していることだろう。

可愛そうに。

ウェブの体が弛緩していく。腕は落ち、肩は下がる。毒の硬直が解け、糸を制御できるようになる。手足がしなやかになったところで、ダリヤは彼のシャツを脱がせ始める。その心に湧き上がる絶望を理解はするが、気に掛けたりなどしない。衣服から解放され、素早く目的を持って壁へと移動する執事に目もくれず、彼女は次にウェブのベルトを外していく。執事は歩調を崩さず、両手を湿った網の壁にぴったりと当てて造作なく壁に貼り付き、肘に付くまで膝を上げる。壁にうつ伏せになり、前後に動く手足と連動するように腰が動き、天井の影へと飛び込んでいく。

ダリヤはウェブのベルトを鞭のように引き抜き、後ろの床に投げ捨てる。素早い動きでズボンの前ボタンをぐいと引っ張り、期待の籠った声を押し殺す。やっと、博士がこの一件と奴の寛大な施しを知れば、バカバカしいパーティーとはしばらくおさらば。ようやく自分の望みを手に入れることができる。その思いが彼女を興奮させ、手つきがますます荒っぽくなる。

背後から骨が砕ける湿った音が響く。彼女は手を止めず、その感覚の中で呻く。彼女の背中の皮膚が縫い目のように裂け、八本の蜘蛛の脚が湿った半透明の粘膜に包まれたまま、ゆっくりと自らを解放していく。膜を破りながら伸び、不規則に揺れながら、背骨に絡まった胎盤の残骸のようなものを飛び散らせる。脚は時間をかけて、彼女の足元の地面へと降り立つ。

それから、ダリヤはウェブに付いて来るよう合図し、彼女は蜘蛛の脚で立つ。彼はズボンを力なくずらして靴を脱ぎ、迷子のように彼女に付いて行く。蜘蛛の脚は一、二秒その場で行進して方向を変え、部屋の中央背の高い椅子に座る者の方へと歩いていく。

一歩一歩が羽のように軽やかだ。ようやく、ようやく自分の道が開けるという禁断の期待に胸が躍る。二度も悩まされた夢を実現させるチャンスだ。長きに渡って子どもを産むことが叶わなかった彼女の目の前に突然、その贅沢が差し出されたその選択肢に戸惑ってしまう。最初に何を作ろうか?男の子?女の子?両方か?そして誰と?

この考えの発端は意外なところから生まれた。ヘルハウンダーズの維持に必要なコスト、研究を続けるために必要な材料、安全を確保するために手に入れておきたい軍需品について博士からレクチャーを受けた時に湧いてきたのだ。しばらくの間、博士が述べたダリヤの蘇生や協力に関する長く退屈な言い訳のリストを彼女は思い出す。彼女の愛しい蜘蛛について、彼は恐ろしいほど多くを知っていて、たびたび饒舌に語っていた。クモの食事や行動、生息地、交尾の仕方など、驚くほど詳細に話してくれた。男である博士が女のダリヤに子どもの世話について口出しすることにあきれ返っていたので、そのほとんどを聞き流したがある日、彼女が耳を傾けたとき、博士はメスの蜘蛛がオスの精液を集める性質があること。メスの蜘蛛は生殖器官に特別なポケットを持っていて、必要なときだけそこに精液をためることができることを教えてくれた。彼女が抱える問題への興味深い解決策だ彼女もこれを持っていたのだろうか?どちらにしても、彼女は機知に富んでいる。

ダリヤは椅子の前で立ち止まってウェブが横に近づくのを待ち、身を降ろす。彼女の背中から蜘蛛の脚が扇形に広がり、骸骨のようなドームを作る。中の空気は暖かく、蒸し暑く、振動するように低い音が響く。椅子の向こう側、部屋の奥を指さすとウェブは従順に頭を回転させてそれに従う。椅子の背後には生きていたとは思えないぐったりとした胴体が積み重なっている。そのほとんどは男性のもので、腕と脚はついておらず、それらかつてあったはずの場所には穴が開いており、炙られ縫い合わされ、無用の長物なっている。胴体の胸は一定間隔で上下している、眠っている。胴体から離れた頭は、無駄な肉と性器後で必要となるかもしれない山に埋もれている。空気の振動の源、半開きの口の口蓋当たる肺から漏れる空気だ。いびきよりも低い唸り声だ。

どれもこれも不老不死の噂を聞きつけてやってきた者たちだ。ダリヤは人脈と金のために歓迎した。その一人一人に役割があった。恩を返すため一人残らず丁寧に誘惑してきた。官僚や貴族、時には有名人をも歓待する才能には自信があったが、その退屈さといったら同じ会話、同じ笑い声、嫌な視線、嫌な接触、敵との出会い同じ立場の女性であれば予測するべきことの全てが受け入れられなかった。これはあまりにも長い間、ダリヤに付きまとった上に大したものは何も差し出さなかった者の成れの果て。恩人には秘密にしている、特別な贈り物。

これでミスター・ウェブも秘密を知ることとなった。背が高くハンサムで、深く暗い目をした男がもう一人コレクションに加わった。彼の喉奥に重みを感じる。涙を流さないよう、こみ上げる嗚咽を喉が押しとどめている。彼の境遇にではなく、その純真さに憐れみを覚えそうになる。これからはダリヤが必要とするときだけ、彼は泣くことになるだろう。ダリヤが必要とするときだけ、彼は笑うだろう。そして、ダリヤが彼を必要としないときには他の者と一緒に天井のあのうねるような暗闇の中に隠れることだろう。

「そんなに絶望しないでください」頼まれもしないのに慰めようという気になる。「まだ最期ではありません。お持ちの人脈で署名や夜会など、様々な方法であなたを使わないといけません。その間に」と。彼女は再び立ち止まり、ウェブに近づき回り込んで、背の高い椅子に座る人物を見るよう指示する。しかし彼はその人物の正体を知ることはない。ダリヤについて何も調べていないのに、なぜダリヤがこの男を知っているのかも知るはずがない。この男は殺人や汚職の汚れた経歴を持たず、愛する家族に囲まれて充実した余生を過ごし、老いて死んだ男を知るはずがない。ニコライ・チュチェフという名のろくでなしを知るはずはない。今の姿では、誰も分からない。

博士は研究の結果、マリスには取っ掛かりが必要であることを発見した。ニコライは愛と子どもに恵まれて充実した日々を送った。故にダリヤを再生させたように彼を再生させることはできなかった。彼はマリスのために必要な悪意を持たなかった。

今この玉座に座っているのは汗に覆われて生にしがみつき、苦痛にもがく筋張った亡者。その皮膚は、溶けた蝋のように重く垂れ、体からぶら下がっている。腕は椅子の上に置かれ、骨のような手はその先を鉤爪のようにして握っている。片方の脚は椅子から垂れ下がり、膝から下の部分が再生できず、無用な切り株のようになっている。

博士は何度も何度もニコライを生き返らせようとした。博士が自分を助けようとする熱意を、その尽きない好奇心以上にダリヤは理解することはできなかったが、それでも受け入れていた。博士は何度もニコライを生き返らせ、叫び声とゼラチン状の肉の塊にしたが、いつも数分後には息絶えた。しかし、その悲鳴も、叫びも、死に際の音も、ダリヤに命を与えてくれた。手に入れることが出来なかった安らぎを彼は得るに値しない存在だったのだ。そう、彼の裏切りから受けた同じ痛みと虚しさで埋め尽くされるべきなのだ。

彼の顎を指でなぞり、もう伸ばすことのできないざらざらとした無精ひげの感触を思い出す。ダリヤはため息をつきながら、彼に命を与えようとした最後の試みを至福のうちに思い起こす。ブヨブヨと蠢き、粘性のある塊のような肉から彼の美しい顔が出る前の、あの叫び声。その時彼の顔に浮かぶ新鮮な恐怖。誰にも見えない者を見つめる見慣れた目の空洞。悲鳴は甲高い吠えのようで、顎と筋肉の付いた首は空に向かって伸び、鎖骨は肩と一緒になって音を立てて割れた。肋骨が一斉に砕ける音を聞き、腰と尻の境目が曖昧になっていくのを見ながら、自分の心臓が希望に満ちていく感覚を今でも覚えている。やがて叫び声は止み、低いうめき声のような懇願へと変わる。ダリヤを慰めようと近づいてきた博士は謝った。マリスはニコライを完全には戻すことはできなかった。蜘蛛の力を借りればもしかしたら?いいえ、結構です。ニコライを完全に戻す必要はそもそもない。

思い出に浸るダリヤは椅子に近づき、背中にある蜘蛛の脚を全て使い、地面から軽々と浮き上がる。ドレスの裾を太ももまでたくし上げ、椅子に乗ろうと体勢を低くし、ウェブに手を差し伸べる。彼も手を差し出すとダリヤはその手で彼を引き寄せ、自分の胸に当てる。確かに、彼の望みはこれではない。そのマネキンのような視線は無表情で彼女を見下ろし、勃起したモノは彼が本当に望むものに背いている。ダリヤからすると、サービスはまだ完了していない。

天井の闇からカチカチという音が聞こえ始める。音は徐々に大きくなり、部屋の空気は濃くなる。これから起こることを理解し、興奮したダリヤのコレクションはヒステリックに揺れ動く。もう片方の手をニコライの顎から垂れ下がるスポンジ状の皮膚に当て、その目を覚まさせる。彼は疲れ切った目でダリヤを見上げる。気だるそうにまばたきをすると、彼を見下ろして微笑む。

「こんばんは、あなた」ダリヤは低く囁く。 「やっとできるよ」